「千と千尋」と「ゲド戦記」

■帰省するのにフェリーを使った。乳児含め、家族4人で和室を一部屋貸しきり。TVとDVDプレーヤーがあったので、長女の退屈しのぎにと、ジブリのアニメを何本か持っていって一緒に観た。
■このところ長女は「千と千尋の神隠し」が大のお気に入り。湯婆ぁばの真似をしてはキャッキャと喜んでいる。
■僕も久しぶりにじっくりと「千と千尋」の全編を2回ほど観た。で、なかなか良く出来た映画だと再認識。
■絵が美しいし、ストーリーもキャラクター設定も丁寧で、なおかつ飽きさせない。なにより、宮崎駿が映画の中で言いたいであろう事柄が、様々な比喩のなかで程よく理解できるようになっていて、大人でも充分楽しめ、また考えられる作りになっている。
■ま、多少説教臭さはあるのだけれど、それはさほど押し付けがましいものではなく、物語の一部分としてしっかり物語世界に根付いているので、観ていて違和感がない。
■個人的に、今回は特に、カオナシの「欲しがれ!」という台詞にあらためてゾッとした。はじめて見た2001年時点ではこれほどまでには現実的な恐ろしさは感じられなかったなぁ…。映画公開から7年たって、時代はより一層「欲しがれ!」の声を強めているように思えて…。
■また、名を奪われて”労働への隷属状態”にされた千尋の呼び名が”千”という「ナンバー」であるということも、いま、なおさらに気持ちが悪い。
■その一方で、油屋の「塔の”最上階”」で強欲丸出しで生きている湯婆婆に対し、「沼の”底”」という片田舎でひっそり物作りをしながら生きる双子の姉・銭婆が言う台詞、「わたし達、二人で一人前なのに…」という台詞にはハッとさせられた。
■宮崎駿という人は、油屋のような欲(金銭欲・支配欲・食欲・そして性欲【舞台である油屋はどうやら湯女=娼婦が男性神様に”サービス”をする特殊浴場のようでもある】)が渦巻く世界をも決して”悪”として断罪しようとはしない。
■底辺でひっそりと質実を求める世界もあるし、ギラギラとてっぺんを目指し続ける欲深い世界もある。そのそれぞれが混ざり合って、同じ地平に連なりながら、一つの世界が出来ている。
■宮崎さんは、そうした「世界の多面性」や、それゆえの様々な弊害をもそのまま認めながら「では、世界のどの側面(世界のどの辺り)に身をおいて生きたらいいのでしょうかね?」と問うているように僕には思える。
■それは、油屋の世界で欲に狂わされすっかり怪物になってしまったカオナシを指して千尋が言う「あのひと、あそこ(油屋)に居るからいけないんだよ」という台詞の不思議なほどの寛容さからも充分感じられる。化け物となったカオナシがいけないのではなく、カオナシと油屋とのマッチング、その出会い方に問題があったのだ、と。
■また、「世界のどの辺で生きるか」という問いが、じつは前作「もののけ姫」の主要テーマであったことからも、宮崎さんの世界の捉え方を伺い知れる。
■二つの価値観は誇張されているし、対立する位置関係に置かれてもいる。そして、それを描く作者の思い自体はきっとそれらのうちの特定の一方に偏っている(それは「質実を大事にする価値観」であり、また「自然の営みに寄り添う生き方」であるようだ)。
■でも、その異なる価値観のどちらかのみを「正」「美」「善」とし、他方を「偽」「醜」「悪」と”断ずる”ことはしない。我を失った化け物も決して暴力的に「悪」「不要な者」として切り捨てられることは無く、それが「悪ではなく」「必要なものとして」生きられる世界がちゃんと用意されている。
■「二人で一人前なのに…」。そう、世界というものは様々な側面を持ち合わせていて初めて「一人前」のものとして機能するということなのだろう。その複雑性のなかでこそ人は揉まれ、成長を得、自分の足で生きてゆく術を得る。
■なかなか感慨深い映画だ。
■きっといま挙げたことがら以外にも、僕が知らない民俗的・文化的・文学的、また時事的なメタファーが随所にちりばめられていて、密かにメッセージを発している事だろう。
■しかし、そうした重層構造を、5歳の子供がはじめから終わりまで嬉々として観ていられる2時間のエンターテインメント映像のなかに過不足や破綻なく封じ込めてしまえる力量に、僕は映画監督という表現者のすごさを感じる。いや、この作品の場合、宮崎駿の天才に、といえるだろうか。
■ところで、フェリーに持ち込んだDVDのなかには、その宮崎駿の息子・吾朗氏が監督したアニメ映画「ゲド戦記」もあった。原作のファンとして、以前から観よう観ようと思いつづけていた作品だ。
■いざ観始めると、長女は冒頭の数分で「こわーい!」と言って泣き出しそうになったので、一緒に観る事は諦め、彼女らが寝静まってから、僕一人でこっそり観た。
■さて、その所感を全てここに書くのは、長くなるのでしない。言いたい事、思った事は、山ほどある。
■ここで言えるのは、まず、「親の才がそのまま息子に乗り移るわけではない」という当たり前のことが改めてよく判った、ということ。
■そして、主観的にも客観的にも重要だと思われるテーマを公の前に表現するうえで大事なのは、決して独り善がりに陥ってはいけないのだ、ということ。
■後者に関しては、大いに自戒の意味合いが強い。この「ゲド戦記」は吾朗氏のデビュー作だ。じつを言うと僕は「ゲド戦記」を観終わってからしばらくの間、その内容や出来のことよりもむしろ、拙著「森のいのち」のことばかりを考えていた。
■表現においては、思想と技術の両輪がしっかりと噛み合って、なおかつそれらが正確に同じ方向を目指していなければ、それは中途で分解してしまう。作者の思い入れだけでは”強い表現物”は出来ないのだ。そんなことを思いながら、僕は正直、ちょっと冷や汗をかいていた。
■ともあれ、表現するということの絶対的な厳しさや難しさ、そして、それにもかかわらず「表現できてしまえる」ことの恐ろしさというものを改めて知らされたアニメ鑑賞のひとときだった。これからもそれらを肝に銘じておこう。
■それにしても、やはり、つくづく宮崎駿という作家の技術はすごいのだなぁと思い直す。「ゲド戦記」を見ての所感は、言い換えれば、宮崎駿の力量がよりいっそうよく理解できた、ということに落ち着くかもしれない。