【書きかけ考察】動と静

■今日は溜まりにたまった事務仕事を片付ける日。普段からちゃんと物事の整理整頓が出来ていれば、ずらっと居並んだToDoリストを前にしてこんなに慌てふためくことも無いのだけれど…。
■しかし、先日仕事で世話になった方への礼状を書きながら、ふと、その仕事(スライド上映)のあとで参加者から頂いた一言が脳裏によみがえってきて、それについて思いを巡らせ始めてしまった。
■自分への備忘録としてここに書いておこう。
■「小寺さんの写真からは、“動き”を感じます」。
■じつはこれは、つい先日の仕事の場のみならず、これまで何度も頂戴してきた一言だ。僕の写真を観てくれた方は、大人か子どもかを問わず、度々写真の“動き”について言及して下さる(特に、小学生の感想文に多い)。
■じっさい僕が撮影する被写体は、そのほとんどが木、草、落ち葉、倒木などなど、自然風景の中の植物的なものばかり。動物は、ごくたまにしか撮らない。しかも、地べた付近の風景にレンズ向けることが格段に多い。また、そこに写っているのは結構どこにでもある植物ばかりだから、観る人の知的好奇心を揺り“動かす”という作用も少ない。
■さらに撮影の仕方として、その多くが、三脚をドンと据え、絞りを絞り込んでシャープさを重視し、狭い画角の中に被写体をきっちり納めてフレーミングするという、言ってみれば“遊びの少ない”、”緊張感(テンション)重視”の作画法をとっている。
■だから自分自身では、僕の写真は「静的」なものであると頭から決めつけていたし、観る人にとってもそうなのだとばかり思っていた(だから時々は「こんな“遊び”や“うねり”の無い写真を見せられても、観る人は退屈だろうなぁ…」などと自虐的に自分の写真を評価してしまったりもしていた)。
■しかし意外や意外、僕の写真は“動き”を感じさせると多くの人が言う。
■これまでは単に、僕のスライド上映のやり方のせい、つまり写真をスライドショー化する際にそれぞれの画像に対して緩やかなズームやパンなどの動的効果を与えているせいで、観た人が“動き”を感じるのだとばかり思っていた。
■でも、よく話を聞けば、そうした画像効果のせいばかりではないのだと言う。木なら木、草なら草の、実際には動いていないはずの一枚の写真そのものに“動”を感じるのだそうだ。
■これはどういったことなのだろう。考える。
■まず、”動き”とはなんだろう?
■WEB上の辞書で「運動」と検索すれば、「物体が時間の経過とともに空間的位置を変えること」と答えが返ってくる。
■しかしこの定義は、言うまでもなく、僕が関わる「スティル写真」という媒体の基本性質とは相容れない。
■いわゆる「(一コマの)写真」は、時間的・空間的に連続して起っている現象を、わずか数秒から数百、数千分の一秒という“一瞬”のあいだに、フィルムや撮像素子といった矩形に区切られた記録媒体の平面上に”固定”することで成立する。つまり、変化する事象からわざわざ変化を奪うこと、それが現代的・実質的な意味での「写真技術」の基礎概念だ。
観察者が定位を持つことが運動を運動として近くするための条件。
■観察者と写真との関係性の中に「定位/定点」を定めるのが、スポーツや動物写真ではカメラ機器やそれを操作する撮影者を含む「写真技術(テクノロジー)」の総体だとすると、一方、僕の写真の場合には、その定点を定める主体は、実際のカメラの働きや写真の技術的要素とは無縁の、写真を観る人そのものの「こころの在り様」だと言えまいか。
カメラや撮影者は、写真を観る者の代理として運動を感知し、それを「本当は連続変化しているはずの現象が完全に静止して見える」という“異常体験”の形で第3者に提示する。その”異常静止”した現象の「あり得なさ」の刺激が、本来そこに起っているはずの「連続変化=動き」へ想像力を観察者の内にかき立てる。