いい加減

阿寒に撮影に来ている。雨。雨の森はいい。でも、さすがに台風の影響は強く、時折ドシャ降りの雨。風もどんどん激しくなる。早く撮影を切り上げて、車の中でこれを書く。
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■先日ある場所で、先輩自然写真家Yさんに初めてお会いした。前々から様々なメディアで紹介される氏の活躍はよく存じ上げていた。しかし、光栄なことに氏のほうでも、折にふれ僕の名前と仕事には目を留めてくださっていたようだ。
■お互い初めて会うような気はせず、いろいろと歓談。そして話題は、僕のメインフィールドである阿寒のことに。
■「ペンケ、パンケの辺りに入ったことある?一般者立ち入り禁止区域だけど、私は許可をもらってあそこで何度か撮影しているよ。このあいだはTさんとも一緒に入ってね。よかったよー!あなたも、阿寒を撮るなら、あそこを撮影しなきゃ。あそこが阿寒の核心部分だからね」とYさん。
■ちなみに「Tさん」とは、日本の風景写真の世界でいま最著名と言ってもいい写真家ビッグネーム。毎月発売になる種々の写真雑誌で、グラビアにしろ特集記事にしろ公募作例批評にしろ、彼の名前を見ないことはまず無い。Tさんのアシスタントを経て自立した自然写真家が、いまどんどんと写真界の中央で活躍を始めている。ほう、そのTさんと一緒に…。
■ところで、そのペンケ、パンケ。阿寒湖の北東部には2つの小さな姉妹湖が隣接していて、それらはペンケトー、パンケトーと呼ばれている。その周辺は主に地元の財団法人が所有・管理する山林地区となっており、なおかつ国定の特別自然保護区にもなっているため、そこに入るには許可が要る。また、そんなふうに慎重に利用を制限されている場所だから、その他の阿寒湖周辺地域よりも原生的な自然環境が色濃く残っている。実際に僕も、阿寒をメインフィールドにし始めたばかりの頃は、ぜひその辺りを撮影したい!と強く思っていた。
■そのペンケ、パンケの取材談。しかも、あの著名な実力者Tさんと一緒にとは、ある意味でものすごく贅沢だ…。数年前の僕ならば、猛烈にうらやましさを覚えていたかもしれないシチュエーション。「こんどは僕も誘ってください!一緒に連れてってください!」と思わず口にしていたかもしれない。
■でも…。そのとき僕は、そんなオイシイはなしを聞いても不思議と心が騒がない自分がいることに気づいた。「なるほど、それはいいですね」と、Yさんには失礼なのだが、あいまいな相槌を打つだけで済ませてしまえる自分がいた。
■うーん、一時期はあんなに「ペンケ・パンケ取材」にあこがれていたのに、自分でも不思議だ。
■さては、写真を撮るということに傾ける熱意が涸れたのか。はたまた阿寒を見つめ、自然を見つめ、深く探求してゆこうという貪欲さが枯れたのか…と自己診断。
■じつは正直なところ、今の僕にはそのどちらも、ある程度あてはまる。
■以前は「写真行為のなかで自分をどう生かすか・生きるか」とか「知識としても体験としても、自然というものにいかに精通できるか」に重きをおいて写真や自然と向き合ってきたように思う。写真家としてのあり方や立ち位置、経験値の多さやキャリアアップの度合いがすなわち自分の人生を計る尺度の一つなのだと考えていたし、そのためにはとにかく、自然の成り立ちをよく知っていること、見聞を広くすることが不可欠だと考えていた。
■でも、最近それが微妙に変化しつつあることに自分で気づき始めている。
■いままでは「写真の中でとらえる人生」だったものが「人生の中での写真行為がもつ意味を考える」という方向にシフトしてきたし、「自然を詳しく知ることが、写真を通して自然と向き合うための前提条件」と捉えていたのが、最近では「写真の中に図らずも見えてしまった自然の営みにあれこれ思いをめぐらせてみる楽しみ」のほうが、知識や実地経験を蓄積してゆくことへの満足感よりもはるかに大きくなってきてしまった。
■主客逆転。悪く言えば、ある意味で、写真や自然というものへの向き合い方がかなり「いい加減」になってきたのだ。いまもし誰かさんに「それ、成長か、逆行か?」などと問われれば、はい、逆行でございます、と答えてもいいくらいの、じつに困った現状に僕は立っている。ふーむ…。周囲からは「おいおい、おまえ、そんなふうに達観するにはまだまだ早いゼ!もっとギラギラやらなきゃイカン!」と大いにお叱りを受けそうだ。
■でも、ナイショで本当のところを明かしてしまうと、僕自身は、自分の中に生じつつあるこの「枯れてゆくような変化」を、じつは密かに歓迎していたりする。
■この変化の要は、はからずもYさんが口にした「核心部分」ということばにある。
■物事の「核心」をどこに求めるのか。きっと、僕のなかでいまそれが徐々に変化しつつあるということなのだ。
■阿寒の、ひいては、僕が関わりたいと思っている自然というものの’核心’とは、一体どこにあるのか。それは本当にペンケ・パンケを取材しなければ見られないものなのか――。そのことを一つの象徴として、いま僕は、自分自身に関わる種々の物事の核心、そして、それら一切を束ねる「わたし」というものの核心をどこに据えたらいいのかという自問に対して、こと写真に関しては、いままでとは異なる返答を準備できつつあるように思う。
■たとえその返答の内容が「写真家」としては落第点以下のものであっても、それもまあいいかな…とさえも思えている。ほんと、かなり「いい加減」になってきてしまった。
■でも、そもそも「核心」なんてもの自体が本来いい加減なものかもしれない。あるときは手に取れるほどの量感を持って、ここぞという場所に立ち現れてくるけれど、いざそれに近づけば、あたかも全てが幻だったかのように跡形も無く立ち消えてしまう。そんな、じつに不確かなものなのかもしれない。字面はじつに’確かそう’な言葉だけれど…。
■それを見る者の立ち位置や挙動によって、見えたり、見えなかったり。確かに、どこかに在ることは在るのだけれど…。そういえば、物理学に「不確定性原理」ってのがあったな。それって、これと似たようなものだったかしらん…?
■科学も哲学も宗教も芸術も、そして写真も、つまるところ、そのえらく不確かな「わたしに関わる大事な核心」を何とか定位しようと試みる、果てしない(そして、ときとして全く報われることのない…笑)遥かなる模索の旅なかもしれない。
■で、その模索そのものの不確かさや「いい加減さ」が、じつは結構おもしろいもんだな、と最近思えてきてしまった。で、これって、成長か、逆行か?はい、明らかに逆行です(笑)。いっそ「逆行を、実感に!」と叫んでみるか。
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と書いて、ドキュメンタリ映画監督、佐藤真氏の自死のニュースを知る。絶句。うつという病気に苦しんでいたとニュースは伝えているが…。
それぞれの模索の旅があり、その行く末もそれぞれある。しかし…。なんともやりきれない。ご冥福を心より祈る。