いろいろ備忘録

■昨日の厚岸のあと、場所を移動し道東で撮影。暑い。
■諸々のよしなしごとを、備忘録。
■「生命」というものの属性として特に際立っているものは、自らを「秩序」として生産する(し続ける)ところだといえるだろうか。
■ヒトという生命体においては、これは”物質的ないのち”に関わることのみならず、”精神のいのち”にもいえることではあるまいか、とふと思った。
■生き生きとした精神活動というものは、本質として「より洗練された秩序の構築」を目指す活動を伴うものであるように思える。
■経験を通してさまざまな物質現象を把握し、それを定義し、ある論理構造の中へそれを取り込んで、整理と取捨選択を行ったのち、既存の論理構造を以前とは違う状態のものへと再構築してゆく。その際、精神は、その再構築された論理が以前とくらべ、よりすっきりとしいて矛盾や混乱を孕まない形に収斂されていることを「快」とする。
■違うかな?
■しかし、仮にそうだとしたばあい、果たして精神の目指す方向は、そっち方面のみでいいのかな?と考える。
■生命の歴史を顧みたとき、物質としての生命体は、「生きる状態を自らキープする」という秩序化に励む一方で、「死(自死)を自らに組み込む」という生命史上の”大発明”を、その歴史を通じてずっと温め続け、また磨き上げてきた。
■つまり自らのうちの「秩序」を「無秩序」の状態へ拡散させてゆく力(流れ)に身をゆだねることを自らに許すということを、少なくともヒトに連なる動物の肉なる生命は、「快」とはしないまでも「良し」とした。そこにある有効な意味が含まれていたからだ。
■さて、果たして精神や思考といったものは、究極の一点をめざす「秩序至上主義」のみでいいのか。自戒をこめ思う。
■どこかで精神も、朽ちる、流動する、解きほぐされてゆくに任せておく必要はないか。拡散
■固定化した精神はもろく瓦解し、再構築が難しい。自ずから構築と崩壊を繰り返す流動的な精神の在り様。さらには、個としては、究極的・最終的には完全なる拡散をなして、溶け出してゆくべきものか。
■つまり、空という状態へ。
■至高の一点(=約束の地、唯一無二の型)への回帰を究極ととらえるか、それとも無窮の混沌や飽和への拡散を究極と捉えるか。僕は今、前者に生きながら、後者に魅力を感じている。
■ポニョ。
■トトロへの回帰、という言い方がされる。ちがうような気がする。
あの、否応無し、全てがはなから渾然と混ざり合った世界観は、
トトロ的世界観とは違う。ととろは、異界と常世とを往復。
ポニョは異界であり常世。一体。行ったりきたりしない。
その、はなから独立した世界なのだ、と突き放してかかる”乱暴さ”は
むしろパンダコパンダに近い。
なんの説明もなく登場するみみちゃん。
いきなり「大丈夫よ、ほら!」と、スカート逆立ちでパンツ丸見え、しかもオマタをパカッ!と。
かなり乱暴に世界に引きずり込む。
とトロはかなり丁寧。ついでにいえば、線と千尋も実に丁寧。
ナウシカも丁寧。
また、理不尽さにおいても、パンダコパンダにちかい。
「泥棒さん、素敵!」
物が壊れようが、周辺が水没しようが、全てが「わはは!素敵!」
これはかなり理不尽。
やはり宮崎氏の原点回帰(トトロ以前)といっていいように思う。
で、”回帰”的な映画の舞台が”海””母”という事実。。
■子どもの思考力
「ことばは思考の道具というよりも、思考の表現だといった方が適切だろう。」
「ことばに思考を作り出すはたらきがあるわけではない。」
ことばは思考そのもののツールでもあるけれど、それだけではない。
思考なきところにことばは生じない。ことばは思考に先んずることはない。
むしろ、すでに個々の内にある思考の構造化、はたらきの強化、そして思考のさらなる展開・成長のための
助力を与えるツールとしてことばを捉えるべきだろう。
ことばと取り組む(格闘する)活動をつうじて、ことば化の以前に既に内在する固有の思考は、
たとえその取り組みにおけることばが内言であろうと外言であろうと、
はじめて客観的(聞き取られるものな)ものとして自己の前に顕在化し、認知される。
すなわち、評価・反省の対象となる。
ただ、ここで重要なのは、真に有効・有意義な内言によることばとの取り組み(格闘)は、
外言=実在する他者とのリアルタイムの対話の経験を通してとりわけ有効にその質を向上させてゆくだろう、という点だ。
こどもの思考の強化とことばの力の強化とは、やはり切り離しては考えられないことだ。
こどものことば力を豊かにすること。
そこには、細分化された諸科学の学習を通して得られるべき(とみなされる)能力の根底にある
「論理的思考力」の成長への萌芽が内在されている。
ここでアイヌの価値観を思う。
アイヌの人間観のなかで、より高次の人徳とみなされるのが「討論能力の高さ」だという事実。
ウコチャランケ。チャランケで他者を負かすほどの雄弁さをもつアイヌが、その社会における尊敬を集める。
ことば力は、社会的人間性を評価するうえでの最重要な要素なのだ。
もしも、この社会に生きるこどもたちが真に社会的な人間であって欲しいと望み、
その上でより柔軟で強靭な思考力を伴った高い人間性を獲得して欲しいと望むのでれば、
我々和人の現代的文化にあっても、ことば力の向上(経験を通じた鍛錬)にもっと心を傾けるべきではないかと思うのだが、どうか。
ただしそこで重要なのは、単なる技術習得・技能獲得の成功体験なのではなく、むしろ、
対話を通した失敗体験、矛盾との遭遇体験を通じた自己の見つめなおし、自己の思考の客体化、そして、
そこで見出された自己の思考の不足点・欠落点を、とりもなおさず自らの能動的営為によって、
できれば新たなことば・語彙(客体化されたもの)として獲得してゆくという「思考の反復運動の体験」だろう。
もしもこうした”揺れ動く”ことを伴わない(許されない)既成の概念や思考様式の刷り込み、ことばについていえば常套言語表現の押し付け等に終始するなら、
むしろそれは思考成長の最大の阻害要素となるだろう。
逆に、社会性などどうでもいい、人間性などどうでもいい、
単に「数量化できる価値の無限の獲得」を目指す効率的な「資源回収機」を育てたいのであれば、