おじぎ

■最近興味深かった光景。
■ある大会で講演会を聴講した。その開会式でのできごと。
■主催団体を代表して○○会長が挨拶。次に、来賓挨拶としてある機関の△△長が挨拶。
■興味深かった、というのは、そのお二人が挨拶のため講壇にあがる際の挙動だ。
■どちらも壇にあがるまえに、まず講師に向け、次に会場の来賓に向けて一礼した後、最後に何故だかわざわざ「講壇」に向けてピョコリと頭を下げる。
■ん?
■講師と会場の人に頭を下げるのは分かるが…。
■講壇には、誰もいないよ…。
■当たり前だ。これからそのご本人が上がって喋ろうというのだから。
■しかし何故、「無人」の演壇に向かって頭下げるのか?
■講壇上に、なにかこう、お二人にとって思わず頭を下げずにいられなくなるようなものでも在るのだろうか?
■例えば、昔世話になった恩人の写真とか、厳しかった祖父の遺影とか、はたまた自分の奥さんの似顔絵とか…。
■いや、見当たらない。一切。見当たるわけもない。そんな邪魔なもの置いといたら、これから講演をする講師に失礼である。
■じつに不思議だ。
■お二人は一体何に向かって頭を下げ、何に向かって「礼」をしたのだろう?
■今一度壇上をよく観察する。が、そこにあるのはただ講演用のワイアレスマイク1本と、講師のために生けられた花瓶の花だけである。
■「マイクや花瓶を見ると思わずお辞儀してしまう」という珍しい癖や習慣が、奇しくも今日同席したこのお二人に共通していた…なんてことは、まさかあるまい。
■演台の背後の壁面には、大きく貼られた横断幕はあるのだけれど、書かれているのはその大会名と講演の演題くらいなもの。パソコン文字で製作された、ごくありふれた横断幕だ。
■これといってわざわざ礼をしたり、もしくは詫びたり、もしくはガックリうな垂れて頭が上げられない…というようなものとは到底思えない。
■僕にとっては、まったくもって、謎、である。
■そこにせめてありがたいイワシの頭の一つでも、はたまた、世を照らして下さるお天道さまを模した布一枚でもあるならば、あくまで「個人」の信心に関することとして、まあ、礼をすることに理は見出せる。
■しかし、これといって何もない空間に、人はかようにたやすく自分の頭を垂れるものなのか。不思議で仕方ない。
■いや、もしくは、垂れ“ねばならぬ”と決められているのかもしれぬ――。
■仮に、もしこの挙動が「“xx長”だからせねばならぬ」と決められているものであり、お二人とも仕方なく行っているのなら、「xx長」でいることの大変さに対し、僕はお二人に心から同情する。
■必要も理も無いことがらを、自らその是非を思考することを許されずに強要されることほど人間として哀れなことはない。
■文字で書き留められた歴史の範疇に限っても(それは多くの場合「強要した側が残した歴史」であったりするが)、その強要により多くの人間が苦しんできたことを僕らは学んできたし、現に今もなお巷のあちこちで少なからぬ人びとが苦しみ続けていることを知っている。
■普段僕は、自分の娘たちに対して度々「自分の頭でよーく考えてみようね!」と話して聞かせているのだが、もし仮に、この謎の挙動が「長」と名のつく人間に強いられた務めであるなら、僕はこれから子どもたちに対し真剣に「何が何でも”長”にだけはなるなよ」と言って聞かせなければなるまい。
■一方で、もし当の本人が「私はとにかく頭を垂れたいんだ!」とか「私はワイアレスマイクや横断幕に敬意を表したいんだ!」と心から望むのならば、それはもう、思う存分その頭を垂れていただけばよいと思う。
■礼をつくされるべき物など何一つ無い虚空に向かって、もしくは、パソコン印刷のだだ広い横断幕に向かって、どうぞ深々と。
■だがしかし、願わくは、決してそれを他の人には強要しないでいて欲しいと思うのである、これからも。
■くれぐれもくれぐれも、そのようなことにならぬよう。
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我ながら、たかが二人の人物が為した「おじぎ」程度のことで、ここまで粘着質な、読む人にとっては不愉快を覚えるような駄文長文を書かなくても…と、思わなくもない。
ただ、時折、半ば病的な欲求で猛烈に文字として書き残しておきたくなることがあるのです。
こと、それがどこかで自分の子どもたちに関わりのある事柄であると、なおのこと。
最後に明かしますが、この「ある大会」は、子どもの教育に関わる大人たち向けの大会でありました。しかも講演の演題が「子どものこころを守る」というものでした(講演自体は、講師の人柄も含め実に素晴らしかった!)
それだけに、ブログ本文に記したような「違和感」がことさら強く感じられたのかもしれません。
あとは、昨年の原発事故発覚以来釘付けになって見続けたテレビ映像の中で、許し難い虚言を振りまいていた政治家たちが、ちょうどこのブログと同じような挙動を毎度毎度滑稽なほどの頻度で繰り返していたのですが(あのときは「お天道様の布」がありました)、その時に感じた二重三重のフラストレーションや嫌悪感をいままた思い出してしまった、ということもあります。
もちろん、時節柄、昨今の大阪の動き、また、もうじき卒業式シーズンだということ、さらにその「卒業式」にまつわるいくつかの裁判判決がここ数週間のうちに連続して出された、という諸々も、影響しています。
はい、ひねくれ者の駄作文への言い訳、終わり。