ことばを放つということ

昨日に引き続き…

「教育再生!」と鼻息荒く意気込んでいるある人の、あることに関する発言が、詭弁としかいいようのない状況です。これがまかり通ると、ひいては子どもたちへの人間教育上、本当にほんとうに、好ましくない。(いまに始まったことではないですが…)

現実に切り込み、現実と格闘し、現実と組み合うためのことばではなく、むしろ現実から目を背ける為でしかないと思われることばが、ふわふわと、またぴりぴりと、巷にあふれている。

ごまかし、揚げ足取り、主体隠蔽、論点ボカし、恣意的誘導。
さげすみ、嘲笑、断罪、決めつけ、恫喝、はずかしめ、排他・排外。

相手を“論破”し打ち負かすために放たれることば。
自らの優位・優越を保守するために累々と積み上げられていくことば。
本来敵などではない相手を“敵”と定義するために駆使されることば。

オトナたちのこうした貧しい「ことば」の状況を真摯に改めずして、なにが「世界に通用する人材育成」、なにが「7年後の“おもてなし”のために、英語を」だろう。

以前からの(感覚的な)持論ですが、僕は、「異文化コミュニケーション技術の習得」という名目で小学校で英語の時間を増やすくらいなら、その時間を「(母国語による)演劇ワークショップ」か何かに振り当てた方が、子どもたちのコミュニケーション活動(知的活動であると同時に身体活動としてのコミュニケーションスキル)の基礎は、より確かに、より深く耕されるだろうと思っています。