ことば

■韓国から戻った翌3月1日は、札幌で開催の写真展の搬入をしたあと、夕方からスライド上映会を行う。
■21名の参加があり、スタッフも含めて店内は一杯。イベント後の交流会でも、お残り頂いた幾人かの参加者の皆さんとゆっくり懇談でき、いい時間をもたせて頂きました。有難うございました。
■その懇談の中で印象に残ったことが。それは「ことば」についてのこと。
■ある方が「小寺さんは写真で表現する人だけれど、ことばも大事になさるのですね」と。
■確かに、僕は、ことばによる表現も写真表現と同様に大切にしたいと思っている。否、表現手段云々以前の問題として、ことばそのものに対してある強い思いを持っている。
■ちょっとオーバーな言い方になるけれど、僕は「この僕自身を形作っている諸要素は、単に血・骨・肉ではなく、”ことば”もまた欠くべからざるものとしてそこに数えられるべきだろう」というふうに考えている。
■つまり、僕というヒトは、その少なからぬ部分が”ことば”によって出来ているのだ――と。
■なぜそう思うのか。それには、些細ながらも理由がある。
■僕は時折、森のなかでヘンな実験を試みる事がある。それは「ことばに拠らずに”考える”ことができるか」という試みだ。自分の思いを一切言語に置き換えずに、あれこれ胸中で思いをめぐらしてみるのだ。
■じつは、これは、何度やってみてもかなり難しい。というか、僕には、できない。
■思索の”起点”となる事柄の一つ二つくらいならば、言語によらず、映像イメージ的なものとして思いうかべることはできないこともない。
■しかし、そこからいざ思いをめぐらせ、深く思索の道程に足を踏み入れようとすると、途端にあたまの中は”ことば”で満たされていく。もうどうしようもなく、僕の母語である日本語がどこからとも無く湧き出してきては、勝手に僕の思いを形作ってしまうのだ。
■この経験を経て、僕は、”ことば”というものが、ことばを繰る動物であるところのヒトの存在や行動の様式に対し、いかに強い影響力をもっているかを痛感せずにおれない。
■少なくともこの僕に関しては、いまや、たぶん”ことば”なくしては、明日の自分を「小寺卓矢」として生かしてゆくことは出来ないだろうとさえ思える。
■きっと、僕は日々、ことばを食べ、ことばを消化し、ことばを糧にしながら、生きているのだ。僕の中に蓄積されたlogosが、僕の生命活動のlogicを決定しているのだ。きっと、僕にとっては、ことばは肉に等しい。
■それだから、翻ってこの僕自身がどんなことばを世界に吐き出すのかについても、出来る限りにおいて丁寧でありたいと僕は思っている(ま、実際に丁寧でいられているかは別として…。現に、この不定期日記におけることばの濫用・浪費については、大いに反省を要する…笑)。
■…と、そんな事を日頃から折に触れて考えているものだから、「小寺さんは写真家だけれど、ことばも大切にするのですね」という問いかけ、もしくは感想のことばが、その交流会の席でも特に心に残ってしまったのだった。
■ことばは確かに大切だ。しかし、と思う。写真家として今後ことばとどう向き合ってゆくのかについては、一度ゆっくり考えてみる必要はあるのかもしれない。
■これまで同様、ことばに信頼してそれを御し、反面、それに御され続ける身で居続けるのか。それとも、いっそのこと、ことばの向こうに広がる世界に果敢に漕ぎ出してゆく努力をするべきなのか――。交流会のあと、一人になってから、しばし考えてしまった。
■”ことば”についての思索は、その翌日も続く。
■札幌からの帰路、長沼町の絵本店「ぽこぺん」に立ち寄った。店主のUさんとあれこれ歓談を楽しむ中で、Uさんからある本を紹介された。
■竹内敏晴著「ことばが劈(ひら)かれるとき」。幼年期以来の聴覚障害を青年になって克服し、それから”ことば”を獲得していったという著者の稀有な経験を元にかかれた本だという。ヒトがことばを獲得するとはどういうことなのか、という本。
■Uさんとはその時、特に”ことば”に特化した話をしていたわけではなかったはずだ。しかし、なぜかその本が紹介された。そして、さらに不思議な事には、そのとき僕の鞄に入っていた本(ほんの数ページを読んだだけで、これから更に読み進めようと思っていた本)が、なぜかなぜか、その竹内敏晴の別タイトルの著作だったのだ。
■「ええ、なんで?」と、Uさんとともにこの妙な符合に驚きつつ、でも僕は、ああ、いまは”ことば”と人間存在について一生懸命考えろ!とカミさまがいっているのだなぁと、変に納得してしまった。
■で、ぽこぺんから芽室へ帰る道中は、とにかく、logosとlogicという単語が頭を駆け巡っていた。
■また、「はじめに言(ことば)があった。言は神とともにあり、言は神であった。」とか「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」とかいった聖書の”ことば”たちが、いまさらながらに思い浮かぶのだった。
■ことば、ことば、ことば。いま僕は、ことばに囚われている。ことばって、不思議だ。