ことば

■1週間ぶりに我が家に帰ってきた。家族はもうすっかり寝静まっている。娘たちの寝顔が愛しい。
■札幌からの帰路は、いつもの事ながら、冬の峠道をゆっくりゆっくりドライブ。あれこれとよしなしごとを考えながら。ある意味でとても贅沢な、そして、僕にとってはとても大切な思索の時間だ。
■今日はもっぱら「ことば」というものについて考えていた。
■一昨日のスライド上映会後の交流会の場で、ある方から「小寺さんは写真で表現をする人だけど、ことばもとても大切になさるのですね」と問われてからずっと、僕にとっての”ことば”とはいったい何なのかを考えている。
■たしかに僕にとって”ことば”は、写真同様、表現方法の一つとしてとても大切なものではある。しかし本当にそれだけだろうか…。
■もしかすると、”ことば”はもっと僕の本質に関わるものなのかもしれない。
■僕はふと考えてみる。果たして、”ことば”というもの無くして、一体、僕は僕たりえるだろうか。つまり、この僕を形作っているのは決して血・骨・肉のみにあらず、”ことば”もまた僕をヒトたらしめている不可欠要素なのではないだろうか――と。
■じつは、僕は時折、森のなかでヘンな試みをすることがある。それは「ことば無し、つまり、思いを言語化することなくしてあれこれとモノを考える(思いをめぐらす)ことができるか」という自分への挑戦だ。
■しかしその試みはいつも失敗に終わる。”ことば”なくして物を考える事は、じつにじつに難しい。
■ある物事を「思い浮かべる」ことくらいはできる。だけれども、それを「めぐらせながら深めてゆこう」となると、どうしても言語化せずにおれないのだ。「深く思う」「考える」という行為を”ことば”、しかも僕が慣れ親しんだ”日本語”と切り離すことが、どうしても僕にはできないのだ。
■それを踏まえて、今一度、僕という存在を考えてみる。
■我思う、故に我在り――昔の人はそんなことを言った。もしそれが真実なのだとしたら、僕という存在は、じつは、”思う”という行為がよってたつところの”ことば”によってこそなりたっているのではないだろうか。いま僕は、そんなことを考えている。
■ヒトがヒトとして生きるとき、その生存の在り方の方向付けをしているのは”内なることばの蓄積”なのかもしれない。
■毎日どんなことばに触れ、どんなことばを自分のうちに蓄えてゆくのか。それはきっと、毎日何を食べるのかと同じくらい、自分の生にとって非常に大きな意味をもつのではないだろうか。そんなことを考えている。
■糧としてのロゴス(logos)。それがヒトの生のロジック(logic)を定めてゆく。
■そういえば、聖書には”ことば”についていろいろ書いてあったっけ…。
「はじめに言(ことば)があった。言は神とともにあり、言は神であった。」
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」
■ふーん…。いまさらながらに頷いてみる。
■しかし、ああ、もうだいぶ眠たくなってきた。1週間の疲れがたまっているのだろう。そろそろまともに日記のことばが紡げなくなってきた。もう寝るとしよう。
■さてさて明日。僕はどんなことばのなかで一日を生きることになるのだろう。楽しみだ。願わくは、なにかひとつでもいい、豊かなことばと出会えるといいなと思う。
■そして、久しぶりに顔を合わせる娘たちに向かって、僕はどんなことばを投げかけるのだろう。育ち盛りの彼女たちにとって良き糧となることばを、オトーチャン、明日はひとつでも吐けるかな…。