ものを書く

いま、原稿を一本書き終えてメール送信した。
750字。所属する団体の会報への寄稿だ。内容は、今夏我が町・芽室で行われる「北海道子どもの本のつどい芽室大会」への参加募集を呼びかける「実行委員長からのひとこと」。なんということはないお題なのだが、結構時間が掛かってしまった。
じつは先日来、同じ会報に立て続けに3本の文章を寄稿している。その全てが会報編集部から「書いて!」と頼まれてのものだ。内容も文字数もそれぞれまちまち、もちろん原稿料などは発生しない作文なのだが、なかなかどうして、つい気合がはいってしまって、推敲に時間が掛かりすぎて困る。
というのも、その会自体が、児童文学など子どもの本に関わる人間達の集まり、つまり本を読むことが半ば仕事のような連中の集まりであるからだ。いい加減な文章は出せっこないのだ。この他にも、ちゃんと原稿料のでる作文を2~3本抱えているのだけれどなぁ…。でもこればっかりは仕方ない。手は抜けない。
作文は、難しい。限られた文字数のなかで、きちんと情報は伝えつつ、自分の心情や哲学、場合によっては批判もしっかりと盛り込む。それを、理路整然と、文脈文法に破綻なく、全体の雰囲気に一貫性を持たせながら行う。おお、文章を書くとは、なんと難儀なことか…。
つくづく、職業的に文字(ことば)と格闘している人のスゴさに感嘆する。僕だって、まがりなりにも原稿料をもらう「文字の仕事」をしているわけだけれど、それはやはりどこかで、本業である写真との協働効果を前提にしていたりするから、僕の仕事の多くにおいては、純粋に文章のみにもてる能力の全てを投入しているとは言い難い。
ことばでものを、世界を表現しきってしまう人たち。しかも、簡潔な文章のなかでそれをする人たちを、僕は本当にすごいと思ってしまう。俳人しかり、詩人しかり、エッセイストしかり、小説家、特に、平易なことばと文法で高度な表現を紡いでゆく児童文学者しかり。
じつは今日、同じ会のメンバーで、北海道の児童文学を代表する作家である加藤多一さんの著作を、図書館で借りてきて読んだ。以前この日記にも書いたが、加藤さんの作品のことばの切れのよさが僕は好きだ。
ページを繰るごとに、無駄や虚飾のない真っ直ぐなことばが、すっ、すっ、と胸に入って来る。そして、僕の脳裏に物語の中の情景や登場人物達の佇まいをごく自然に想起させ、またその後に、くっと背筋を正したくなるような、胸がちくりとするような、それでいて腹のそこがずーんと重たくなるような、複雑極まりない心情を湧き起こさせる。
多分にそれは、今日読んだ作品のテーマが「戦争」に関わるものであり、いま僕自身が特にそのことに対し敏感になっているという理由もあってのことだとは思うが、それにしても、平易な短い文章の中で、これだけ読み手の心に過不足なく訴えかける表現ができるものかと、改めてうなってしまった。
世を見渡せば、言葉をもてあそぶかのような二枚舌・三枚舌の連中が社会の権力者として表に立ち、それこそ確信犯的に、妄言・虚言・詭弁で人を傷つけ、貶め、辱めている(本当はそれにより直接・間接に傷つけられているはずの人々が、それを我がこととは思う事が出来ずに、そうした連中の下支えをしてしまっているという悲劇的な昨今…。「いつかきた道」にならない事を切に願う)。
真にことばを発し、真にそれを聴き、真に読み解いていくことの重要性、その能力を研ぎ澄まさなくてはならない必要性を、今ことさらに感じている。自戒を込めて。
自分を省みれば、こうして毎度毎度冗長な日記を書くのがいいのか悪いのか、自分でもわからない。でも、訓練は怠らないでおこうと思っている。それは、書く訓練でもあるし、書くための心の訓練でもある。そして、それはきっと、ひいては、聴き、読み解く訓練にも繋がるだろう。いまこそ、ことばと遠ざからないで日々を生きようと思っている。(あまりにも軽いことばはどこかインターネットの彼方へでも飛んでいってしまっても構わないけど…)
ま、まずは、もっと簡潔にものを述べられるようにすることが一番に求められるだろうな。うーん、自分でもわかってはいるのだけれど…。反省。