もろもろ

■だだっと、備忘録。
■昨日3月3日は、先日の日記でも紹介したNPO活動での「産直ランチ・餃子」の当日。またしても盛況。お客さんとして参加してくれる方々はもとより、スタッフとして参加しているボランティアさんたちとこうして知り合いになれ、一緒に楽しい時間を過ごせたことが嬉しい。皆さん、ありがとう!
■あと、前回2/19終了後に公民館で偶然であった高校生のMちゃんが今回お客さんとして来てくれたのも、ほんと、うれしかったなぁ!
詳しくは「めむの杜」ブログ
http://blog.memunomori.net/
■夜は、娘たちとひな祭り。といっても、お雛飾りは祖父母の家で堪能済みの我が娘たち。ということで、気分だけ春らしく、皆で桜餅を食べる。子ども達は完全に「花より団子」。ぱくぱくと、ああ、うまそうに。
■そして、今日4日。
■午前中は自宅で諸連絡・事務。アリス館の担当Yさんから電話。新作写真絵本の印刷の最終打ち合わせ。「改めて、いい本ができたなぁと思います」と彼女。嬉しい。ああ、あとは印刷ペレーターにお任せだ。見本が届くまで、ドキドキ・わくわく。
■昼食には昨日の「ランチ」の残りのビビンバご飯をいただく。冷めても美味い。
■午後の早い時間は、事務所でテストプリント作業。3月末に徳島で行われる写真展の作品。初めて使うプリンタ用紙。札幌の写真資材業者さんC社が送ってくれたサンプル用紙。うん、なかなかいいんじゃないか?今回は600x900mmを20点。これから本格的に作品づくりだ。気合を入れねば。
■2時過ぎ、帯広へ向かう。そのC社の営業Fさんに誘われて、帯広市内で行われた写真機器メーカーの新商品展示説明会。
■その会場につく前、なんだか喉が渇いたので、コンビニでお茶を。不意にケータイが鳴る。電話の相手は、香川県のAさん。ある方から紹介をうけ、ぜひ今度の四国行きの際にお会いしたかった子育て支援NPO代表の方。先に僕の著作を郵送していたので、そのお礼にとわざわざ電話をいただいた。
■で、僕は写真絵本を作った写真家として、先方は子育てNPOの代表者として、なんてことない挨拶程度の会話で終始するはずだったその電話が、おや?詳しく話をしてゆくと、それは思わぬ方向に。
■聞けば、なんとAさんもいま「コミュニティ・レストラン」というキーワードを見据えながらあたらしい事業をあたためていらっしゃるというではないですか。「ちょうど僕らは昨日、”コミレス”への布石として「産直ランチ」というのをやったんですよ!」などと、僕。
■あら、このご縁は、何?楽しいじゃない?!Aさん、今後ともどうぞよろしく!
■こうした経験をすると、改めて、世の中は狭いものだなぁと思う。そして、その狭さを、喜びをもって体感できるということの豊かさ。ありがたいことである。
■世界は本当のところ、ビックリするくらい深くて広い(に違いない)。けれど、その大海原にトポンッと飛び込んでしまえば、そこにたつ波紋は、きっとどこか他の場所で誰かが立てた波紋と出会うもの。そこに生じる複雑な綾模様が、なんとも言えず美しい。じつは、その綾模様の中にこそ、わたしにとっての”世界”があるのかも知れぬ。狭くってもいいのだ。
■で、Aさんからいただいた電話をちょっと興奮気味で切った後、商品展示説明会場へ。その場で営業Fさんに、本プリント用の用紙を発注。
■帰宅。カミさんはまだ出先から戻っていない。刻は夕げ時。キャベツがあるから、えーい、お好み焼きだ。とーちゃんのお好みは、ウンまいでー!
■でも、子ども達は、お好みよりも食後の桜餅パート2の方に関心を寄せているようで、お好みはそこへの単なる通過点。とほほ…。えーい、次回はギャフンと唸らせる絶品お好み焼いてやるからな!
■食後、今日の香川のAさんとのことを地元のNPO仲間にMLで伝えると、そのうちひとりから「その人、わたし、別の子育て系MLで知っている人かも!」と返信が。せ、狭い。
■で、子育て支援についての話題が出たので、ふと、2年前に我が町の子育て支援グループの方々に絶大な協力を得て実現させた「Aさん絵本講演会」のことを思い出した。
■当時(06年~07年)の「不定期日記」を読み返してみる。
■その頃の僕の中では(そんなに昔のことではないのだが…)、写真とか写真家活動というものと、地域での活動や「暮らし・生活」というものが、まだどこかで”相容れないもの”として捉えられていたようだ。
■でもいまは、それが少しずつ近くなってきてることを感じる。
■森の写真を撮るのも、児童書を作るのも、ドキュメンタリ映画に関わるのも、講演会やワークショップをするのも、じつは、娘たちと桜餅を食べることや仲間たちと餃子の皮をコネコネすることと何ら変わらぬ、ある”根”をもっていて、それに支えられている。
■当たり前といえば当たり前。何をどんなふうにやろうとも、結局、ひとりの人間として生きているのだもの。
■でも、何度もこの日記に書きつづけているように、今は、そうした至極当たり前のことこそを一つひとつ大事に抱きかかえてゆきたい。つまり「ひとりの人間として生きている」という現実を。
■そして、これもまた何度かこの日記に書いてきたことだが、その当たり前のことを当たり前の事として享受できない”仕組み”の中に放り込まれてしまっている人々がいるのだということを、できる限りにおいて忘れないでいたいと思う。
■自分の当たり前の豊かさを知ることは、翻って、当たり前の喪失がいかに耐え難き”貧しさ”として人身・人心を痛めつけるかを知ることでもあろう。
■本当のところはビックリするくらい深くて広いこの世界の、当たり前を奪われた全ての人々の”痛み”を知ることなど、僕には不可能だろう。でも、自分の内にある小さな豊かさを起点に、せめて想像を巡らせてみることくらいは、僕にもできる。
■そういう意味でも、僕はできるだけ身近な当たり前のことを大切にしたい。先日の日記で紹介した辺見庸さん風の言い方をすると、手触りでマチエールを確かめられるくらいに自分の身体やこころに近い当たり前のことを、大事にしたいと思う。
■目に映る光と影、聴こえる音、冷たくも暖かくもある空気、そして、ゆるやかな変容を遂げながら繰り返してゆく時間。で、その中で多種多様ないのちが今日もそれぞれに”生きている”。
■世界は、じつはそんな当たり前のことで満ちているし、むしろ本来は、そんな当たり前のことだけが積み重なってできたものに過ぎない。それだから、世界は、広くて深くて、そして、そっと手のひらで包み込めるほどにちいさい。
■じつは、アリス館からの次回作(「だって春だもん」)は、そうした思いや、”痛み”に対する自分なりのささやかな共感を、こっそりと裏側に縫いこむようにして作った本です。
■でも、これを読んでくださる方からは「のうのうと安穏をむさぼり、真の痛みを知らぬアマちゃんのたわ言」と一笑に付されてしまうかな…。「お前の想像力とは、思いとは、この程度のレベルか!」とお叱りを受けるかな…。そもそも「表現物の体をなさない、稚拙!」とあきれられるかな…。
■でも、自分なりにいまできることをしたのです、と言い訳することは許して頂きたい。
■ああ、気付けば、備忘録のつもりが超ロング独白になってしまった。酷いね、この長さは(笑)。病気です。もう寝ましょ。寝るのが当たり前の時刻です。