もろもろ

■絵本作家・長野ヒデ子さんから新刊が送られてきました。うれしい!
■「もりもりくまさん」長野ヒデ子文・スズキコージ絵と「じゃんけんほかほかほっかいどう」長野ヒデ子文・青木ひろえ絵。
■北海道人にとっては、「じゃんけん…」ももちろんいい!しかし、「もりもり…」がいい。
■くまの日常を「もりもりくまさん…」のリズムに乗せて淡々と追います。朝起きて、朝食を食べて、買い物に出かけ…。
■スズキコージさんのタダゴトじゃない絵(笑)ももちろんスゴい。しかし、それにも増して長野さんの文もいい。
■「じゃんけん…」の方もそうなのだけれど、長野さんの「口からでるコトバへの信頼」を強く感じます。日常の当たり前の出来事も、口から出したら、ほら、百倍楽しく百倍元気になるよ!とでもいうような。
■より大袈裟に言えば、”口からコトバを出す”という行為への「希望の付託」、それをいま子ども達に伝えるということに対する長野さんの「使命感」みたいなものすら感じるのです。
■僕も思います。大事だよな、口からでるコトバ。
■ところで、今日、撮影を終えた後に車の中で読みふけった本に、こんな一節がありました。長いけど一部抜粋・引用。
 わたくしたちの思考のはたらきは、内的コミュニケーションであって、心の中で自問自答がおこなわれながら、考えがまとめあげられていく。もっと正確には、この過程はメタコミュニケーションの活動である。心の中である考えが生じたら、これを聞き手として受け止め、分析することによって、その考えをいっそうよいものに仕上げていくこととなるからである。
 しかし、こういうはたらきの出発点は、実際の会話活動にある。会話の中で、自分の発言の矛盾や問題点を自分で見出し、それを修正するという活動を通して、子どもは洗練された思考へと接近していくことができる。
滝沢武久著「子どもの思考力」岩波新書270
■これまた、なるほど、と思います。「もりもりくまさん」で上記のように考えた直後だっただけに。また、図らずもこの日記に「学力」と「ことばの力」について書いたばかりだっただけに。
■ほんと、大事だよな、コトバのちから。
■ことばと思考、そして、ことばと”学力”。
■より効率的に正答へ辿り着けることを”よろしい”とする、つまり、正答へすんなり辿り着けなかったという結果を”よろしくない”とする価値判断方法がある。それが口述によるものだろうが、筆記によるものだろうが、その方法論自体にはなんら問題はない。それを通し、確かにある一つの扱いやすいバロメーターは得られるでしょう。
■しかし、バロメーターが得られたその後、そのバロメーターに照らした際の「自分の発言の矛盾や問題点を”自分で”見出し、それを修正するという活動」が入り込む余地が、さて、あるのかな?と考えてしまうのです。
■もちろん、”可能性”はあるでしょう。むしろ本来”テスト”なるものは、そのためにこそあるべき手段。
■テストを受ける主体が、自らで自分の足りなさを見出し、その自覚の元に、自ら必要と判断した修正を自らに加える。しかも自らの営為によって。
■その基本は、つまり、自らを聴く・自らを凝視する、ということ。
(ただし、そうしたことを通していくら自分を客観的にみれるようになったからといっても、どこぞの誰かのように、人前で気色ばんで「私は客観的にものが見れるンです!あなたとは違うんです!」などと開き直ってはなりませんぞ。それこそ、まるで客観的視点を持ててないことがバレて、かなりミットモナイですから…)
■さて、昨今催されたあの大々的テスト。
■テストを受けた主体である子ども達が”(自ら)聞き手として受け止め”る過程や、”自分で見出”すという過程の遥か先を越して、よりによってテストをやらせた側の人間が「こりゃアカン!教育非常事態宣言発令や!”行列のできる学力養成所”つくらなアカンで!(←最後の”行列…”は冗談ですけど)」などと声を荒げる事態に。
■このような世情をみると、どうも現状は子ども達にとってはかなり厳しい状況のようで…(もちろん教育委員会、教員各位もかなり厳しいでしょうけど)。
■そして、こういう現状をかんがみたときに、またしても僕は、ここにポニョを絡めたくなるのです。
■曰く言いがたいのですが、あの”収まらなさ”加減。「…で、結局何が言いたいの?もっと言いたいこと、あるんじゃないの?」と問いたくなるような(笑)、鑑賞者の知的欲求・刺激欲求に対する”喰い足らなさ”。そこを僕は敢えて”大らか”と呼びたいのですね。こんな世情だからこそ。
■あの映画、ある意味、とっても不親切な映画だなぁと思います。僕には、監督の宮崎さんが、観る者に向かって作品をドンと手渡すというより、僕らの前に作品をポーンとほっぽり投げているようにも見えるのですね。(ほっぽり投げるの、日本のオジサンたちの間で、いま流行っているんでしょうか?)
■先日会話を交わしたある人(絵本店の店主)はポニョを評して「もう少し丁寧にやって欲しかった」と、非常に意味深い意見を僕に聞かせてくれました。それはそれで、なるほどそうかもな、と思います。たしかに劇中、負の面でそれを感じないわけではありませんでした。
■でも僕には、なんだか宮崎さんが、かなりな労力と精力を注ぎつつ、意図して、不丁寧・不親切を目指したように思えてしかたなく、逆にそこを評価したい気がするのです。ま、もしかしたら僕の”宮崎幻想”もしくは”ジブリ幻想”ゆえの勘違いに過ぎない可能性もありますが…。
■じつは今、道東地方の厚岸町に来ていて、あす子どもワークショップでお世話になる主催者の方々と夕食をご一緒させていただいていたのですが、その席でも、ポニョ鑑賞後の感想では意見が割れました。
■あれはどうも…という方2名(成人)、あれはよかったという僕1名。あと、新聞に酷評が出ていたよという報告も。
■どうも意見が割れる映画のようですね。
■この際ですから思い切って白状すると、冒頭の30分の中で、僕は何回か目頭を押さえました。「ええ、何でアレで泣ける?!あんたの感覚、どうなってんの?」と仰られる方も多々あるかとは思いますが…。