やっぱり、当たり前に尽きる

■さっき、講演会を一つ終えてきた。帯広市立栄小学校PTA主催講演会。PTAの方々はもちろん、校長先生はじめ教員の方々、またなによりも子供達がたくさんきてくれて、本当にじっくり写真を観、話も聴いてくれた。嬉しかった。企画してくれたPTA役員の方々に本当に感謝。
■しかし、こうして地元十勝でスライド上映会や講演会をする機会が今年になってぐんと増えたなぁ…。僕にとってはそれもまた本当に嬉しい事だ。スライド上映活動を始めてからこれまでの7~8年間というもの、地元での開催実績はほとんど無く、むしろ関東圏、道内では札幌圏や函館圏と、都市部で催していただく事のほうが断然に多かった。
■きっと、それにはいくつかの理由があるだろうと思う。
■一つは、人の縁。僕の場合、こうした講演会は、ほとんど全てといっていいくらい、人づてで情報が広まって企画が立ち上がってゆく。自分から「やりませんか」ともちかけて話が決まることは本当に数少ない。その「情報の発信元」になってくださる強力なサポーターが、これまで多くの講演を行わせて頂いてきた町々には何人もいるのだ。有り難い。
■そしてもう一つは、僕が講演で紹介する写真のテーマが「森」だ、ということだろう。つまり、都市部の人ほど、「森」という言葉に象徴される「ピュアな自然環境」への希求が高いということがその背景にあるのだろうと思う。これは、自分自身がもともと東京のベッドタウン育ちなので、実感としてよく分る。
■確かに、僕が久しく通い詰めている阿寒周辺のように幽玄で奥深い自然風景を東京や横浜のあたりで探そうとしても、それはなかなか大変なことだ。それどころか「緑の木々」というだけでも、それを求める気持ちは非都市部に比べたら格段に大きい。きっと、「北海道の森の…」という枕自体がですでに、普段絶対に目にすることのできない原生自然を連想させる強い力をもってしまっているのだろうと思う。
■翻って、都市部以外ではどうか。事態はやはり、逆になる。
■当然ながら、地元に長らくいる人間にとっては「北海道の自然」とか「北の森」という言葉は、たいした誘引力をもっていない。むしろそれらは、自分が住む土地と生活に当然備わっている属性の一つであり、珍しくもなんともないものなのだ。
■珍しくないと思っているものをわざわざ目の前に見せられて「ほら、エゾマツがこんなに逞しく生きています。これ、いいでしょう?」などと言われても、正直困る。
■自然発生性に委ねてきたところのある僕の講演会やスライド上映会などが、これまであまり十勝地方で催されてこなかったのは、じつはこの辺に一番の原因があるのだろうと僕は思っている。そして「それは当然のなりゆきだよなぁ…」とも思っている。
■しかし最近、その事態に少しずつ変化が生じ始めた。地元に住む人が、やはり地元に住む友人や子供達に「小寺さんの写真を見せたい」と言って、森の写真の上映会を積極的に催してくれるようになってきたのだ。僕は、それが本当に本当に嬉しい。
■写真家として単純に、自分が撮った写真を観ていただく機会が増えたということ自体、もちろん嬉しい。だがそれよりも「当たり前のことを当たり前に撮った写真が、それらを”当たり前のことだ”と思う環境にいる方々に喜んで受け止めていただいている」ということが、じつに嬉しいのだ。
■僕はこれまでずっと、「当たり前のことを当たり前のこととしてキチンと正面から捉えよう」と、そのことに心を傾けて写真を撮ってきた。そして、その「何てことないありふれた風景の中にこそ、見逃してはならない、聴き逃してはならない何モノかが宿っているはずだ」と信じて写真を撮ってきた。
■僕は決して、類まれな絶景や珍獣を撮りたいわけではないし、前人未到の秘境、この瞬間にしか見ることのできない奇跡の風景を切り取りたくて写真を撮ってきたわけではない。いわんや、私だけがこの景色をこんな風に切り取る事ができるのですよ、と人に知ってもらいたいわけでもない。
■もちろんそれらの、科学性、記録性、芸術性において価値の高い風景や事物を写真に収める事に全く興味が無いわけではないし、いわずもがな、それらを撮ること自体の高い価値性を認めないわけでは決してない。「写真」というメディアと「写真家」の存在意義の多くはこうした価値性に依拠していると言ってもいいだろうと思っている。
■でも僕の写真は、そういった価値性とは程遠い。これは、自己卑下するわけでもなく、変にへりくだっているわけでもない。現実として、僕の写真は、単に気まぐれ任せで撮ったスナップ的な風景写真に過ぎない。
■それは、写っている被写体を見ればよくわかる。僕の写真に写っているものは、北日本の森、否、その辺をほっつき歩いてさえいれば誰にでもお目にかかれる自然物がほとんどだ(もちろん希少性の高い事物や風景だっていくつも撮っているけれど)。
■そういえば以前、小さな個展を開いた折、会場で友人から「小寺よぉ。あのさ、俺らはさ、普段は見られないようなものを写真で見せてもらいたいんだぜ」と笑顔のお叱りをうけたことがあったっけ…。
■そもそも僕は、呆れるほどにめんどくさがり屋で飽きっぽく、物事をすぐ諦める人間だ。だから、決定的瞬間を何時間も何日間もかけて待ったり、50kgの機材を背負って3日間歩き続けてようやく被写体に辿りつくなんて撮影行には、生来向いていないのだ。ついでにいうと、今使っている機材システムにしたって、数々の妥協の産物といっていい。
■さらに悪い事に、目的意識や向上欲も希薄だから、「あれを、こう撮る。そしてこう見せる」というテーマと構成の企画能力も、じつに低い。これでよく10年も写真なんていう高度にメンドクサイことやってこれてるなぁと、時折自分でも感心するくらい。(これはもっぱら、支えてくれる人達のお蔭…)
■しかし、こんな僕ではありながら、ひとつ心して続けていることがある。それが「当たり前をこそ大切にしよう」ということだ。
■例えるなら「僕の足元にいろんないきものが生きている。生きてるって、いいなぁ」、それに尽きる。
■そして、その当たり前の風景の中に感じた美しさと、そのさらに向こうに静かに横たわっている「重たさ」を、あの四角い枠の中に過不足無くすくい採ることができたなら、もうそれでいい。どこで撮ったか、そして何を撮ったのかということでさえもが、時として「どーでもいい」ことになる。
■ちょっと偉そうな事を書き過ぎたかもしれない(あ、いつものことか…)。ほんと、能書きばかりタレて…。
■でも、本心だ。そして、その本心から生まれた拙くも大切な「当たり前の写真たち」を、自分が住むこの土地の人達にも徐々に受け止めてもらいつつある。なんと幸せなことか。これ、本当に嬉しい。
■で、嬉しすぎて、つい日記も長くなる…。こんな日記、いったい誰が読む?でもブログも一応「日記」なんだからまあいいか。自分への記録、ナルシズムへの今日のご褒美ということで。