ニュースとは…

■函館からの帰り道、いつものようにAMラジオNHK第一放送を聞いていた。「昼のニュース」だったか、いくつかの報道のあとに、こんな「ニュース」が飛び込んできた。
■さる「高貴」な家族の長女が、幼稚園生活最後の運動会を楽しんだと。その両親も、カメラを片手に娘の様子を楽しそうに見ていたと。ご丁寧なことにその「ニュース」は、長女が「白いシャツに紺のズボン、頭にはとんがり帽子をかぶ」っていたということまで、事細かに伝えていた。爽やかな秋空のもとで、楽しく運動会を楽しまれたのだと、ただそれだけの内容。
■これがNHKの「ニュース」である。公共放送が報道枠の時間を割いて市民に伝える「ニュース」である。
■果たして、NHKを視聴する市民のうちどれだけの人間がこのことを「ニュース」として知らされたいと願っているだろう。一体どれだけの人々が、この「ある一家の幸せな秋の一日」をNHKという公共放送機関に「報道」してもらいたいと願い、またそれを知る価値のある情報として受け止めているだろう。
■僕は、とことん、あきれてしまった。
■ところで、この「ニュース」を聞きながら僕はあることを想像していた。それは「ああ、たぶんNHK取材班は、”白いシャツに紺のズボン、とんがり帽子”のかわいい映像を、さぞかし上手に撮ることができたのだろうな…」ということだ。
■言い換えれば、もしもこの「高貴な一家の一日」にまつわる”映像素材”が一切無かったのなら、きっとこの「ニュース」がラジオで報道されることは無かったのだろうな、と思ったのだった。
■そう、いまや、時として「ニュース」が映像を生むのではなく、映像が「ニュース」の核をつくってしまうことがある。そんなときには、まずテレビニュースが映像に隷従させられ、ラジオニュースはそのテレビニュースに隷従させられる。ラジオニュースを聞いていると、その構図がとても良く分る。
■例の「ダンボール肉まん」はもちろんその構図の中にあるだろう。あれは本当に醜い事例だった。さらに、先ごろのミャンマーの長井さん死亡事件の初期報道にも、じつは、僕はその構造の影響をそこはかとなく感じていた。
■僕はそのどちらもまずラジオで報道に触れたのだが、そのときすでに、ごく初期段階であるはずの報道のうちに込められていたある種の異様な「熱」の存在に、少なからぬ違和感を感じていた。
■そして、あとでテレビを観ることで初めて、その不可思議な「熱」の正体が、じつは、いわゆる”衝撃的な映像”から発せられたものだったことに気付くのだった。
■いろいろな面で、市民は、今後より一層気をつけたほうがいいなと、AMラジオを聞きながら僕は考えている。この「隷属構図」の最下層におかれようとしている(おかれている)のは誰なのか、と。
■そうそう、「高貴なご家族の一日」のことだ。
■後にテレビで見たニュース映像には、まさしく”白シャツ・紺ズボン・とんがり帽子”でお遊戯を楽しむ少女と、それを夫婦仲むつまじく微笑みながら見守る両親の姿が、とても”良く”映し出されていた。
■やっぱり、だった…。
■テレビに映し出された、一切の不穏さも不安さも感じさせない、これでもかというくらいに幸せ感満々の映像を見ながら、僕は、どうにも、苦笑いをするしかなかった。