ニュースと情

久々にぼやこう。
さっき見たNHK9時のニュース。奈良での崖崩れで3人死亡、というニュースの構成内容に違和感を覚えた。
ニュースは事故の概要を伝えた後に、被害者3人のうちの2名(夫婦)のことを伝えた。被害者の家の映像と庭木のピラカンサの赤い実の映像が、遠景をぼかしたイメージショット風に挿入され、続いて、近隣住民へのインタビュー映像が流れた。映像にはその住民が話す内容のテロップがつけられている。その内容をかいつまめば「二人は釣りや温泉が好きだった。仲の良い夫婦だった」ということらしい。
さてこれは?と思う。一体全体、この夫婦の暮らしぶりや仲のよさをあえてニュースとして伝える必要があるのだろうか。
この事故について考えるべき大事な点は、崖崩れが起き被害者がでたという事実とその原因、そして被害を未然に防ぐことができなかったのかについての検証、それを踏まえたうえでの今後の対策に尽きるはずだ。
それ以外の事柄を、わざわざインタビュー取材により第三者より聞き出し、その映像ソースを挿入してまで当事者・関係者以外の一般視聴者に伝える必然性は、これといって無いように思える。一般視聴者がこのニュースを受け取る上で、わざわざ被害者の人となりを知ることに、いったいどんな意味があるのだろうか。疑問に思った。
人情としては、僕個人としても、この夫婦の生活がむごい終わり方をさせられたということ対して大いに悲しみの情を覚えるし、その延長線上で、この夫婦がどんな夫婦だったのかを知ってみたいという思いも起こらなくはない。
しかしこの事故の場合、それは事故の因果関係になんら関係のない話だ。この夫婦の人となりや生活がどんな様子であったかは私的なことであり、それについて思いを馳せることは今の時点では「情」の範疇のことがらだ。
あらためて問いたいが、主題の因果と無関係なところで、報道が視聴者の「情」に触れようとすることについては、その意義の有無に関して慎重な吟味がなされるべきではないだろうか。
民放や大衆週刊誌などは、コマーシャリズムの中で、いかに視聴者・読者の好奇心や情動を煽ることができるか、日夜しのぎを削っている。悲しいことだけれど、そこにはある種、構造上の「必然性」があるのも事実だ。だから、僕らは毎日のように、朝から晩までおどろおどろしい文言やセンチメンタルなストーリー、センセーショナルな映像にさらされ続け、良きにつけ悪しきにつけ、心をかき乱されている。そしてそれは、いま、明らかに過剰だ。いまや「情」がマスコミを席巻している。
さて、昨今のNHK報道ははたして、そうした「情」の範疇に入り込む取材・報道の是非について、きちんと吟味をしているのだろうか。僕には、NHK報道がむしろそのような「情」的好奇心に安易に流されているように思えてならない。ひいては、コマーシャル主義に基づいた「視聴率競争」の姿勢と一線を画しているべきはずのNHK報道が、逆にその流れに無意識的に迎合してしまっているように思えてならないのだ。それを、今回の崖崩れ報道の中にも強く感じた。考えすぎだろうか?
ニュースがイメージ映像を添えてまであえて「仲の良い夫婦でした」と伝えるとき、僕らの心の中には何が生じるだろう。そしてそれは、いま、本当に必要なことなのだろうか。たとえそれが「良き人の情」のように思えたとしてもだ。
僕らはそうしたことにより敏感かつ慎重にならなくてはいけないと思う。