ホラー映画を観る

昨日、久々に一級品の「ホラー映画」を観た。ぞぞぞっと背筋が寒くなる映画だ。内容は「機械化人間にひたひたと侵略されてゆく我ら人間社会の運命やいかに?!」というもの。
いや、冗談はこの辺にして、その映画のことをちゃんと紹介しよう。それは「君が代不起立」という真面目なドキュメンタリー映画。東京都の公立学校でいま現実に起こっている、君が代不起立・不斉唱の教師達に対する行政処分の内情を伝える記録映画だ。
「君が代不起立」
製作:ビデオプレス/2006年12月制作/87分
公式サイト:http://vpress.la.coocan.jp/kimi.html
細かな内容はここには書かない。ただ、ドキュメンタリー映画だからといって「敷居が高く感じる」内容ではない。足を運ぶことを堅苦しく考える必要は一切無く、専門知識や予備知識が無くても、充分内容を理解できる(ちゃんと観よう、理解しようという思いさえあれば)。
興味のある方はWEBで検索してください。いや、ぜひ検索をしていただき、機会があればこの映画を観ることをお勧めします。特に、東京都に住んでいる方で、これから東京都教育委員会の管理の元で運営される学校に我が子を託そうとおもっている親御さん・保護者のみなさんは。「ホラー映画」というのは冗談だが、しかし、ぞぞぞっとすることは多分間違いないと思う。
ついでに、「そんなの、自分には関係ないや!」と言う人にも、本当に関係がないことなのかを知る為にも、機会があるならば、観る事をお勧めします。
君が代が国歌として相応しいか、とか、それを入学式・卒業式で歌わせるのことの意義は、とか、そういったこと(これはこれで至って重要な問いなのだけれど…)の以前に、如何に今の教育現場が硬直化しているか、またその中で「意思を持ったヒトの存在が組織やその仕組みに吸収され、挙句、抹殺されてゆくのか」といったことが、実にリアルに見えてくる。
映画の中に希望が無いわけではない。登場人物たちの行動や語る一言ひとことには、「人が人として生きるということに対して、希望を失ってはいけないんだ、失望することはないんだ」という思いを強められる。しかし、それだけになおさら、映画が伝える「現状」の冷たさには、背筋が寒くなる。
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やはり、内容についても触れておこう。
登場人物(不起立で処分を受けた教師)の言葉を紹介する。
複数回目の不起立をすることに決意したものの、累積する処分の重さに悩みを覚えていたある教師が、結局は、その年の卒業式では「会場外の巡回警備をせよ」との職務命令を受ける。それは、式の「君が代斉唱」の場に居合わせなくても良い、つまり起立か不起立かの判断を責を問われくても済むということでもあり、また一方では、会場に立ち入り、卒業式に立ち会うことは許されないということでもある。
それを受けた教員の一言。
「正直、ほっとしたというのはあります。(処分がさらに重くなって減給になり、家計の面でも)妻にこれ以上迷惑は掛けられないと悩んでいましたから。でも、揺れ動く心で見ると、会場に入ってはいけないという命令は、悔しいですね。」
そうなのだ。「揺れ動く心」。
ひとの心は揺れ動く。これが、人が人らしく生きる、ということなのではないか。「教育」とは、その揺れる心をどう自分なりに抑制し、自らの手で人生の方向性を決めてゆくか、その「自己決定」のサポートをするための場が「教育現場」ではないのか。
子どもだろうが大人だろうが、みな揺れ動く心をもっているからこそ「人間」なのではないか。しかし、そうした揺れる心はいま、東京都政の前では否定され、丸め込まれ、切り刻まれ、一つの価値観のなかに放り込まれてしまう。子どもも、大人も。
処分を受けた教員やその支援者が、やるかたない思いを抱えながら都の教育委員会に出向いて自分達の意見を陳べるシーンが何度も映画中に出てくる。しかし、自分の思いを率直に目を見て伝えようとする彼らに対して、それと対峙する都職員達のなんともいえぬ「無表情」。目をそらし、手を前に組んで直立したまま、一言も発せず。機械的な対応。
彼らとて、きっと心の内では「揺れ動く心」が日々葛藤を繰り返しているのだろう。しかし、組織の中では、それを表に出す事は許されない。多分、それを出さないでいられるようになった人たちこそが晴れて「役場」という組織の一員となれる仕組みになっているのだろう。少なくとも映像に映し出された彼らの表情からは、そんなことを思わずにいられなかった。
「揺れ動く心」をぐいっと抑圧した彼らの無表情をみていると、僕は心底、ぞっとする。これが教育に携わる人間の顔なのか、と。いったい何の為の組織であり、なんのための「教育」なのかと。