ポニョ2

■ネットには映画のレビューが氾濫しています。いくつものサイトやブログで、幾千、幾万という人たちが、自分の観た映画についての感想や批評を思い思いに書いています。
■それらを訪ね歩き他人様の意見を覗き込むことで、自分のスケベな野次馬根性を充足させてみたり、自分の見識の正当性を無理やり裏打ちしてみたり、と、僕もあれこれレビューを利用して楽しんでいます。
■しかし全く逆に、そうした”手軽にアクセスできてしまう他人の評価”との距離を周到かつ慎重に保っていなくてはならないぞ…という、ある種の、この時代に対する危機感のようなものを感じてもいます。
■さて、先日観た「崖の上のポニョ」。
■この映画に関しては、僕はいまのところ、余計な情報、つまりレビュー的なものからできるだけ遠ざかっていようと思っています。
■ただ、話題の映画だけに、ネット上にはポニョにまつわる情報が結構多いのです。
■ついに今日、ネットをさまよっているうちに、ついつい欲求に負けて、ポニョにまつわるいくつかのレビューをちらっと覗いてしまいました。
■そこには、こんなような記述がありました。
「ポニョのシナリオには破綻した部分が多い。わかりやすいところでは、海水魚であるポニョをいきなり水道水(淡水)をはったバケツにいれてしまうところなど、ありえない」
「主人公の少年は自分の親を名前で呼び捨てにする。またその母親は、せまい山道を軽自動車で交通ルール無視の大暴走をくりかえす。こんなモラルの低い人間が主人公では、子どもには見せられない映画だ」
「劇中、主人公の行動で多くの犠牲者が出ているはずなのだが、それらは度外視し、主人公のハッピーエンドのみを尊重してしまう”主人公主義”の宮崎駿作品の特徴が踏襲されている」
云々。
■それらを読んで僕は「うーん、宮崎駿のワナに、見事にはまっているなぁ…」と思ってしまいました。
■きっと宮崎さん、今作は特に意図して「破綻・矛盾・無理・不条理・不可解」をストーリーや登場人物たちに抱え込ませているんだろうなと思います。ポニョを観た人たちの”現代オトナ体質”を捕えるワナとして。
■かねてより度々、作品内の設定や主人公の挙動の中に現代社会に対する問いや批判をおりまぜてきたようにみえる宮崎作品(ある意味、説教クサイんですよね…)。
■しかしどうやら今作は、「この作品を上映する」という行為そのものが大らかな”問い”であり、またその問いの対象は、観覧者によって鑑賞後に客体化(もしくは分析・評論)されうるような外的世界なのではなく、観覧者自身の現在進行形の在り様そのものなのかもしれないな、と思います。
■たとえば「それ、ありえないから!」や「っていうか、それ、ふつーに無理でしょ」といった語彙がポロポロと無意識的に口から出てきてしまう”乾燥ワンフレーズ”時代に生きる我々に向けた、ある意味での挑戦状的な映画だな、と思いました。