一人称の意思

今日の午後、ある団体の今後の運営のありかたを検討するための意見交換会に参加した。
その団体が設立当初掲げた理念(設立の目的)の一部が、現状の運営の在り方では全く達せられておらず、それどころかその見通しすらも全く描けずにいるという。
その現状をどう考えるかについての意見を団体構成員から聴き取る目的で、団体設立者が招集をかけて行われた会合だ。
しかし、全くの”空回り”会合だった。
問題の所在は、団体を立ち上げた張本人(=言い出しっぺ)のリーダーシップ不足。
字面だけは立派な理念を掲げているのはいいけれど、それが現実のものとなったときにもたらされるであろう「実り」(効果)の豊かさを、具体的にも、おぼろげにすらも、青写真(ビジョン)として提示できない。それを提示し、他者と共有しようとする「意思」が感じられない。
理念を達成することの客観的な意義や必要性については図式や理屈で説明をし、運用改善の方法論的重要性やニーズを伝えはする。
しかし、理念を達成させるということそのもの、そして理念達成に伴う「豊かさの獲得」に対する”熱意”や”意気込み”が全く伝わってこないので、どうにも話が先に進まない。意見を求められる側としては、じつに歯がゆい。
誰が、何を為したくて、これを始めたのか。それを為したい、為すことによって何かしらの”益”や”豊かさ”を得たいと心から願っているのは、誰なのか。それを為すことに対して”本気”になっているのは、誰なのか。
その具体像が全く見えてこない。
「やろう!」と言い始めた張本人が、「やる」ことに対する真剣さや、”やった先のビジョン”を提示できなくて、一体誰がその取り組みに力を貸すだろう。
例えれば、行く先を示そうとしない先導が導く船に、一体誰が同乗することを願い、そこで一体誰がオールを漕ぐというのだろう。
客観的な理屈や仕組み、運用の方法論、組織論よりも前に、まず必要なのは「わたしはそれを為したいのだ。なぜなら、わたしは、それを為すことに価値を見出すから。」という”一人称の意思”だ。
その”わたしの意思”が確たる基点とならなければ、何事も始まらないし、何事もちゃんと終わらない。(たとえその”わたし”が「法人格」であったとしても)
大事なのは、まず、本気でやろうと思うこと。
自戒を込めて、そんなことを考えさせられた今夕のひとときだった。