丁寧に聴く

先日2月11日に旭川「こども冨貴堂」で行ったスライド上映&講演の様子が北海道新聞夕刊・旭川版(22日付)に載りました。その掲載紙が今日記者さんより届きました。
とても大きく取り上げられていてビックリ。何よりも嬉しかったのは、講演で話した内容が実に過不足なく、要点を的確に捉えて記事化されていた事でした。話した内容の要旨をここまで丁寧に汲み取って記事にしていただいたことは、いままでなかったかもしれません(文字数を多く割いていただいたということが大きいのかもしれませんが)。
取材してくださったのは若い記者さんで、なおかつ本来業務はじつは「カメラマン」。でも、記者としてなかなか素敵な人でした。取材当日にお話しをしている時点ですでに、さりげなく相手に気を配ることのできる、丁寧で実直な人なのだなぁということが伝わってきました。特に感心したのは、人の話をじっくり聴ける記者さんだったということです。
「記者が取材対象の話をじっくり聴く」。これ、至極当たり前のことのように思うのですが、じつは、それがなかなかできない記者さんというのが現実にいるもので…。ご自分のなかで「こういう記事にしたい!」という思いが一際強いのでしょうか、こちらが話の核心部分を話すよりも先に「ハイ、ハイ、わかりました。」と次の質問に移ってしまったり、資料を読めば分るような事実関係の聞き取りに不思議なほど一生懸命だったり。インタビューを受けながら苦しい思いをする事がこれまで何度かありました。
自分のことを省みれば、僕自身、人のいう事にじっくり耳を傾けられないところが多分にあります。はっきり言って、とても人様の事をとやかく言える立場の人間ではありません(もしカミさんがこれを読んだら「うんうん!」と頷くだろうな…)。でも「人の話を丁寧に聴く」ということの大事さ、そして、それがきちんとできることの貴さは、よくわかっているつもりでいます。
丁寧に聴く事。それは、「相手と同じ位置に立ち、相手をひとたび自分の中にきちんと受け入れる」ということに通じます。人と人が出会えば、何をするでも、まずはそここそが出発点。全ての「意義ある関係」の芽生えはこれに始まるといっても過言ではないのでは、と思います。
でもこれって、結構難しい。人には自我がある。関係を築こうとすればするほど、無意識の自我がむくむくと己の中で肥大して壁となり、他者への寛容を抑制してしまう。かといって、自我を完全に捨て去れば、そこに築かれる関係はえらく味気無いものになる。むしろ、関係をもとうとすることの意味自体が消えてなくなる、と言ってもいい。
きちんと己の自我を大切にしながらも、しっかり「聴ける」人間になりたい。つくづくそう思います。じつは僕は、森に通い、そこで木々の佇まいに触れるようになってから、なおさらそれを思うようになりました。
さて。(はい、ぼやきます。論旨も脱線します。)
いま僕らが生きる世では、どれだけ「丁寧に聴く」ということが大切にされているでしょうか。今の社会は、個人のというよりは、ある「集団的自我」が不気味なほどに肥大化し、結果として、恐ろしいほどに寛容さを失った人の群れになってはいないでしょうか。また、本来個々人の自我を大切に育てるべき心の培地に、そういった得体の知れぬ非寛容な「集団的自我」を、「これ、美しいんだから…」なんて言って、しゃにむに植え付けようとしてはいないでしょうか。まるで60~70年前にやったきたように。
こんなことでは、丁寧に聴く事はおろか、丁寧に話すことの能力すら失って、ケダモノに堕す危険すらあるように思えます。いや「機械」に堕す、といったほうが時事的な表現でしょうか。実際、すでに堕して久しい人々が、「丁寧に話せなくなってしまった」ことにより、今まさに脚光をあびていますものね。
いま、いくら「国際協力が大事だ。国際協力できる国にしよう!」なんて叫んでみたところで、こんなふうに聴く事・話す事が満足にできないのであれば、根本的に価値観の違う海の向こうの他者と良好な関係を築けるわけがないのですが…。小学生に英語を教え込む前に、もっとやるべき事があるでしょうに…。
え?いざとなれば金の力でなんとか関係を築くから大丈夫だって?え、そもそもこっちの言い分だけが通ればそれで「対話成立、関係成立」ってことにしちゃうの?で、もしそれが適わぬならあとはゲンコツをちらつかせて、と?そうか、それで今、やたらと「ゲンコツ・ちからコブ」を鍛えようとしているのだな。
うーん、これだとやはり、ケダモノ以下ですね。で、やっぱりこれ、60数年前にやらなかったっけ?
さ、大事なうちの子ども達がまんまとケダモノや「機械」にされてしまわぬよう、常に気をつけていよう。