三省堂書店留萌ブックセンター 読み聞かせ&トーク/読書感想文について

今日は、北海道・道北の留萌市にある三省堂書店留萌ブックセンターさんにて著作写真絵本の読み聞かせを中心としたトークを行ってきました。留萌ブックセンターさんはオープン2周年。その記念として今回のトークを企画していただき、お呼びいただきました。節目の会にお招きいただき、嬉しいな。

今回は、店内に設けられた読み聞かせコーナーで、ゴザ席の子どもたち(その後ろには保護者の方や一般の大人の方々も)を前におしゃべりです。明るい店内でしたので、いつものようなプロジェクターを用いてのスライド上映会ではなく、本をそのまま読む形で。

読み聞かせの合間には、自己紹介がわりのおしゃべりをしながら、カメラ機材の紹介をしたり、子どもたちにカメラバックを背負ってもらったり、70-200ズームをつけたカメラボディーを手に持ってもらったり。

あと、僕が撮った写真に写っている被写体と同じようにポーズをとってもらって“擬似被写体”になってもらったりと、子どもたち自身に大活躍してもらって、楽しく小一時間を過ごしました。

のびのびと自由で、打てば響くノリのいい子どもたちでした。最高です!楽しかったよー!



ところで、この留萌ブックセンターさんは、街から書店が消失するという危機に際して市民が立ち上がり「マチに本屋さんを!」と奮闘して開店した、市民の“本への想い”の結晶です。

トークが終わったあと、店長の今さんに開店当時のいきさつを少しだけ教えていただいたのですが、改めて、今さんや留萌ブックセンターを支える「応援し隊」の皆さんのように「本の手渡し手」としての役回りを担ってくださる方々の“熱意”が「本」の世界を支えているのだなぁと思いました。

「本」に関わるものとして、感謝です。



あともうひとつ、改めて思ったこと。

今日子どもたちと楽しく関わる中で、「読書感想文」ということについて考えました。

すでに何度もお知らせしているとおり、僕の著作「いっしょだよ」はこの度2013年度の青少年読書感想文コンクールの小学1・2年生の全国課題図書、また北海道指定図書に選定されたわけですが、選定が知らされた当初、僕には幾つかの理由で戸惑いがありました。

そのうちの一つは、「この本で、小学1・2年生が、一体どういう感想文を書けるのかな?」という、ある種の心配です。

この本をお読みいただいた方はすでにお分かりかと思いますが、この本は、ただ淡々と森の自然の営みを客観的・自然科学的に提示する写真絵本というよりは、著者(僕)が伝えたい想い(観念)を読者に語りかける内容になっています。

特に書名にもした「いっしょ」(共に生きる)ということについて、即物的な側面というよりは観念的側面で「できればこの点で共感してもらえたら嬉しいな」というポイントがあります。

そういう立場にたって、この夏、子どもたちが取り組んでくれるかもしれない「読書感想文」ということについて考えた時、正直に告白すれば、「この観念的なことをテーマとした本で感想文を書くのは、低学年の子どもたちにとって難しいのではないか…」と先述したような心配を僕は覚えました。

ただ、いまは、それが子どもたちに対して「失礼なこと」なのではないかと思っています。

これはいうまでもないことですが、あるものを見たり読んだりして、その人が何を感じて想うかは、その人の自由。本来は、他人にとやかく言われる筋合いのものではないですね。

スキ、キライ。おもしろい、つまらない。よくわかる、よくわからない。たとえば、そうしたシンプルなことでも立派な「感想」です。

そして、そうしたシンプルなことを文字で書き記せば、もうそれは直ちに「感想文」です。

自分のうちに芽生えた感情や思いを何らかの形で言語化でき、それを文字で表記できる一定以上の能力さえ培われていれば、感想文を書くことなど、じつはなーんにも難しいことはないですね。

もしかしたら、ユーゴーの逸話にならって「?」でも「!」でもいいのかもしれない。(厳密にいえば、文字化されている必要も無いですね。文として口承で伝える方法もある)

でもそこに、たとえば「この本のあの点・この点についての感想が書かれていて欲しい」とか「この本のこの部分を汲み取って欲しい」とか、さらには「その感想文で私を納得させて欲しい」「誰かを喜ばせるような感想を書いて欲しい」とかいった、僕のような未熟者の、“こう読んで欲しいと思っている側”(読ませたい側)の思わくが絡んでくると、途端に事情が変わるわけです。

その「思わく」によって、本来は自由自在であるはずの「感想」の在り方にある種の“基準点”が設置されてしまい、その基準点への「到達度」を測るモノサシが置かれてしまうのですね。

「到達しなければならない基準点(理想の到達点)」があれば、自ずと、“完全に到達する”ことが求められる。でもそれを求められる側の能力は様々だから、すんなり到達できる者もいれば、なかなか到達できない者も出てくる。ここに「困難さ」が生じるわけですね。

(わざわざこんな当たり前のことくどくど書いてもなぁ…と思いつつ、書いちゃった…)

こう考えてみると、「感想文をかくこと」を子どもたちとって「難しいこと」にしてしまっている張本人は、ついそうした余計なモノサシを本の横に置きたがる僕のようなオトナなのかもしれません。

何を想いを、何を表現するかは、本来は自由なことであって、その自由を個々人がしっかり手にしているということは、本当に本当に・大切な大切な「人間らしく在るための基本」。

そこについ過剰にモノサシをあてがいたくなる、不遜。ついつい不純物を混ぜたがる、おせっかい。

反省です…。

特に今日は、留萌で、じつに自由でじつに素敵な子どもたちと楽しく嬉しく触れ合ったこともあり、「子どもにモノサシをあてがいたがる自分」への反省を深めたというわけです。

改めて、子どもたちには、この「いっしょだよ」という本を通じて、自由にいろんな感じ・想いをもって欲しいです。何でもいいんだ、ほんと。

さらには、僕が思いもよらないような読み方(観かた)をしてくれたとしたら、それもとても嬉しいことです。

また、子どもたちの中には、自分の内にある感覚や想念をいかに表現するか、想いをいかに客観的かつ巧みに言語化できるかという課題に(身近な大人といっしょに)取り組んでいる人もいることでしょう。

言語力(まずは国語力ね!さらに正確にいえば「共同体語力」かな)を筆頭とした表現力はとても大事な「人間スキル」だと僕も常々考えているので、そうした訓練ための道具や素材としてもし僕の本を有効に活用してもらえるならば、それもまた嬉しいことです。

子どもたち、この本とどのように向き合ってくれるかな。本当に楽しみです。

そして、もしこの本と向き合ってくれたこどもたちのなかに一人でも「この小寺っておじさんが大事にしたがっていること、なんかわたしもわかるかも…」と言ってくれる人がいるならば、それはもう、ほんと、至福。いっしょにこの本を作り上げた編集者ともども、寿命が10年は延びちゃうかも。笑



なお、長くなったついでに書いてしまえば、僕は、子どもたちの前からあらゆるモノサシを全撤去せよ、すべてのモノサシを見えないものとせよ、とは露ほども思いません。

現にこの世には幾多の既成モノサシがあって、いまその存在に触れる機会を持たぬ子どもたちだって、人生経験を重ねる中で、遅かれ早かれそれらいくつかのモノサシで身の丈を測られ、そのうちにそれを自らの手に持つようになり、それをもって自分と関わる物・事・人(自分自身をも)を測りながら生きていかなくてはならなくなります。

でも、大事なのは、そのモノサシを「自分自身にとって大事なモノサシである」と子どもたち自身が認識し、それによって身の丈を測られたいと希望し、それを自ら持ちたい(持った方がいいな)と思い、持つことを選択し、実際にモノサシを手にとり我が身や他の事物や世界に当ててみるることができる、ということについて、そのあらゆるレベルでできる限り柔軟かつ十分な「選択肢」が子どもたちの前に提示されていることでしょう。

「選択肢」は、いつの時代も、大事なキーワードだと思います。

同時に、「絶対的な」ことがらは(特にある種の「力」を伴った絶対的存在は)、世の中にあまり数多く存在しないほうが良いように思っています。弱いものが痛い目をみることに容易に繋がるからです。(2013.7.22朝、追記)