世界を呑もうと思えば

なだらかにたっぷりと、どこまでも丸くひろがる世界を、ちょきんちょきん切り分ける。
で、小さく切ったその断片の一つ一つを、腑に落としてみる。呑み込んでみる。
そう、世界を呑もうと思ったら、僕らは、まずは世界を切らねばならない。
でも、あたりまえのことだけれど、世界を如何に器用に上手に切り刻もうとも、その断片を如何にたくさん呑もうとも、世界全体を呑み尽くすことなど、とうていできない。
呑んでる途中で気持ちのよい満腹感、充足感が感じられたとしたら、それは案外、危うい錯覚なのかもしれない…と疑った方がいい。
で、そうした切り刻むばかりの営みが、呑み込むばかりの営みが、かえって世界についての錯覚しか生まないのだと分かったとき、ならば今度は、と、自分の肚んなかで呑んだ断片同士をくっつけて、もいちどげろりと吐き出してみる。
もしもその吐瀉した混合体が、呑み込む前のキレイに切りそろえられた断片には観られなかった不可思議な姿を持ち、不可思議に臭いたっていて、不可思議で妖しい光沢を放っていたならば、しめた!と思ってそれをじっくり観察してみるのがいい。
案外、その小さな混合物の異形、それが放つ臭いと光沢の向こう側にこそ、呑もうと思っていた世界の質量や輪郭が、薄ぼんやりとではありながらも、確かに感じられてくるかもしれない。
(そしてついには、断片にすらしてもらえずにただ切り残され捨てられるだけだった世界の”端材”が、じつは自ずから/始めから、同じ臭いと光沢を放っているのに、ようやく気づいたりして)