信頼

■今日は、十勝平野の南、広尾町の豊似小学校に呼んでいただき、スライド上映と絵本作りワークショップ(WS)をしてきました。
■まず、お呼びいただく一番のきっかけを作ってくださった保護者Kさん、そしてこの催しの実施を快諾してくださった子ども会役員の方々、また校長・教頭先生をはじめとした学校関係者のみなさんに、この場を借りて感謝を。どうもありがとうございました。
■そして今回もやはり、子ども達にこそ、ほんとうにどうもありがとう。
■なぜ講師が受講者に対し「ありがとう」を言うのか。それには理由があるのです。
■豊似小学校に限らず、僕は、こうしたWSをさせて頂くたびに、ある大切なことを子ども達から教わっています。
■それは、「子ども達は、真に信頼に値する存在」であるこいうこと。
■つまり僕は、自らが講師を務めるWSのなかで、彼らから「人を信頼する」ということの実地レクチャーを受けているのです。
■それは、こういうことです。
■自分の写真を見てもらうこと。自分が書いた本を読みそれを聞いてもらうこと。そして「きょうは一緒に”身近ないのち”を見つめてみようよ」、「自分だけの絵本を作ってみようよ」と呼びかけること。
■これら、僕が講演やWSのなかで呈する行動は全て、僕から彼らへの「呼びかけ」そして「問いかけ」です。そして、紛れも無い事実として、それらは全て、僕から彼らへの限りなく一方的な「お願い」に過ぎません。
■はっきり言ってしまえば、多くの場合、子ども達自身の中には「写真家を名乗る小寺某から何か特別なことをしてもらう」ということへの内発的ニーズは、これっぽっちも無いわけです。
■その事実ゆえに、じつは僕は、特にWSを通して彼らに「問いかける」ときにはいつも、言い様のない不安と恐怖を感じています。僕は、WSのたびに、ワクワクする期待感を覚えると同時に、いつもコワイのです。
■彼らは僕の呼びかけを受け止めてくれるだろうか…。”いのちを見つめよう!”なんていう手前勝手な掛け声に応え、一つの作品を仕上げるというかりそめの課題を、彼らは本当にその手で担ってくれるだろうか…。
■WSが始まってしまえば、もうそこには、ほぼ「祈り」にも似た、子ども達への「信頼」しかないわけです。僕にできることは、あとはもう一切を彼らと彼らの感性に「委ねる」しかないのです。
■でも…。
■彼らは本当にきちんと答えてくれるのですね。彼らは「見つめ」、「作り」ます。
■時には、そしてその個人によっては、こちらの「祈り」を遥かに凌駕して余りある、”いのち”への確かな眼差しに充ちた物凄い作品を、ポーンと僕に投げ返してくれたりするのです。
■もちろん、彼らがそのように僕のささやかな「信頼」に応えてくれていることの背景には、例えば学校行事であれば学校行事としての、また集団で行う行事としての、若干の「目に見えぬ強制力」が作用していることは否めないでしょう。
■また、初対面の者同士のあいだにある拭い難い「緊張関係」(甘えられない関係)が影響してもいるでしょう。彼らのやさしさゆえの「他者への配慮」もありましょう。
■しかし、それを割り引いたとしても、彼らは、そして彼らの感性と手が創り出す作品は、いつでも僕の信頼を裏切る事がないのです。彼らは、彼らなりの方法、彼らなりの表現で、僕の拙い問いかけにきちんと応えてくれるのです。
■それは、特別な技巧に富むでもなく、恣意的な作為を孕むでもなく、どこまでも不器用・愚直であるが故に、かえって僕の胸を強く打ちます。
■この経験は、僕を本当に深く励ましてくれます。
■恐る恐る差し出した手を、余計なことは何も言わずにただしっかりと握り返してもらえるということ。それがどれだけ人の心を温かにするのか――。そんなことを、僕は自らの体験として、WSという場で彼らから教えてもらうのです。
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■いつものこの日記のように、今日もいささかオーバーな書き方をしすぎているかもしれません。でも、本当です。
■彼ら小さな人たちは、信頼するに値する存在です。そのことを、僕は今日も感じました。だから、ありがとうといいたくなるのです。
■そして、自戒を込めてつくづく思います。僕を含めたいわゆるオトナたちは、普段の暮らしのなかで、彼らをもっともっと信頼すべきなのかもしれないな、と。