写真展トーク

■富士フィルムフォトサロン札幌で、僕が加入する団体のメンバー4名による合同写真展が開催中。今夕は展示会場にて作家とゲストによるトークショーが行われた。
■4人の作家がそれぞれの作品製作意図や写真観、世界観などを紹介してゆくという内容。僕も、例の如く自分の死生観も交えて作品に込めた思いをしゃべった。
■それぞれの作家の話は、それぞれに印象的だった。ああ、なるほどな!そういうふうな写真や被写体、世界との向き合い方・付き合い方があるのか!と大変刺激になった。
■しかし、今日一番心に残ったのは、プログラムの最後、会場との質疑応答の場で、あるお客様が、僕を名指しておっしゃった次のようなご意見だった。
■「わたくしももう20年くらい写真を撮っているんですけれどもね、先ほどのお話を聞いていて思ったのですけれど、小寺さんはいろいろ難しいことを考えながら写真を撮っていらっしゃるようですが、あなたはまだお若いんだから、もっと純粋に楽しんで、感性で写真を撮ればいいと思うの。(同じく今回出展している)○○さんみたいに。あと、△△先生みたいに広ーい風景とか。そうしたらあなたの写真もよくなると思うの。」
■僕はかなり精神的に打たれ弱いの人間なので、この手のご意見には結構容易に「うっ…」となってしまう。じつはつい先日もある同世代の写真家から「そんなにいろいろ考えないと、写真って撮れないものですかねぇ…」というようなことをポツリと言われて、密かに「うっ…やはり考えすぎなのだな、俺は…」となったばかり。
■そこで「うっ」とならずに踏ん張って、このお客様のご意見に対してこちらからいくつかの意見をお返しすることができないわけでもない。
■たとえば、僕は僕なりに、レリーズに至るまでのプロセスにおいては、それこそ感性のおもむくまま被写体と向き合い、そして、少なからぬ割合で、その出会いを心から喜び楽しんで撮影に望んでいるのだ、ということ。
■それでいて、僕にとってやはり写真というものは、人生の一部として自分の生活やいのちと直結した事柄なので、何を撮るか・撮るのか撮らぬのか・撮ったものをどう人目にに晒すかなどなどについては、何も考えないではいられない、ということ。
■また、より批判的な観点からは、たとえば「20年くらい」とか「まだ若いんだから」というような、経てきた年月や年齢を基準として人の表現活動のありようを評価することのナンセンスや、また、写真表現の評価を「○○さんみたいに」というような他者との比較で論じることのナンセンスとか、細かな部分を適宜ご指摘させていただくことは可能だ。
■でも、そのご意見の論法や根拠、僕の思考とのギャップの程度がどうであれ、単純に、こうして面と向かって「あなたの作品はイマイチね!」と断言されることは、やはり、正直言って、何度経験しても苦しいものだ。
■結局、あのお客様にとって僕の作品が力を持たなかったという事実は厳然として残る。彼女の心に僕の写真は響かなかったわけだ。
■「全ての人の心に響く写真表現などあり得ないのだから、気にせず笑ってやり過ごせ!」と自己弁護することは簡単だ。
■しかしやはり、人前に剥き身の自分の分身(=写真)をさらして生きるものとしては、できる限りにおいて「あら、あんたの裸、大したことないわね…」とは言われたくないのも事実(結局、傷つきたくないのだ…)。
■せめてせめて「わたくしの趣味には全然合わないけれど、でもあなたの写真、なにか心に引っかかるのよね…」というご意見をひとりでも多くの人に言ってもらえるような、また、いわゆる”自然風景写真”というものに付いて回るある種の「固定観念」をたやすく突き破るくらい力のある写真を撮りたいものだなあ、と思わされた夜だった。
■まだまだ、力不足・純度不足であります。
(でも、そうはいいつつ、やっぱり文章に悔しさがにじみでてるなー。我ながら。笑)