写真展/たのしさ

■午前中は家事。雨の多い北海道。洗濯物、乾くかなぁ…。
■午後はちょっと事務仕事をしたあと、新得町へ。例の「トムラウシ山遭難事故」で話題になった、あの新得町です。
■今日は新得町公民館と図書館で写真展搬入作業。公民館のほうは「森のいのち」と「だって春だもん」の原画写真展。図書館のほうは徳島で展示した大判プリントを何点か展示。
■展示作業の後、司書のKさんとしばし談笑。今週末には同館で写真絵本作りワークショップも開催予定なので、その打ち合わせなども。
■夕方家に帰ると、長女が嬉しそうに国語辞典を見せてくれた。今日下校後に、同じ町内にすむ祖父からプレゼントしてもらったのだそう。
■長女は小一。彼女にとってはじめての「宿題のある夏休み」が明後日から始まる。今日学校で夏休みの宿題を「たーくさん」もらってきたという。
■じつは「何より学校が好き!勉強おもしろーいい!」と公言してはばからない彼女。どうやら夏休み中も勉強する気まんまんの様子。そこへきての”マイ辞典”。嬉しくないはずが無い。
■僕は冗談半分、しかし半ば本気で「小学一年生のクセに、そんなに勉強なんかするんじゃない。遊べばいいんだ、遊べば!」と言ってきかせるのだが、彼女、「へへーん、いやだもーん!オトーチャンの見てないところでナイショで勉強しちゃうからねー!」とおどけている。
■今日は特に、辞典という新たな”ツール”を手に入れたことで興奮気味なのかもしれないな。でも、日頃の学校の様子などを聞いても、確かに彼女、心の底から勉強、いや「学習」を楽しんでいるみたい。
■そうか、学ぶのって、そんなに楽しいことだったんだなぁ…。
■自分の小一時代がどうだったのか、遠い昔の記憶を辿ろうとするが、うーん、どうにも思い出せない。
■「学び習う」ことがいつしか「強いて勉める」ことになり、そこから楽しみ/愉しみが消え失せていってしまったのは、一体いつの頃からだったのだろう…。「学びの楽しさ」がようやく蘇ってきたのは、20代も半ば頃、大学を卒業してからだったなぁ…。
■…と感慨に耽るオトーチャンを尻目に、長女はさっそく「オトーチャン、なんか言葉いって!」と、僕を出題者に仕立てての”辞典早引きゲーム”を始めるのだった。
■「しょうがっこう」という単語が「しょうがつ」の横にあることが無性に可笑しいらしく、きゃっきゃと大笑いしながら「次、次のことば!」とせっついてくる。本当にたのしそうだ。
■果たして僕は、この彼女にとっての「愉しい時間」「楽しい体験」への希求を、彼女自身のものとしていかに大事に保ち続けてあげられるだろうか。
■悲しいかな、いまの社会にあっては、その「愉しさの純粋性」を保つことは、それはそれは恐ろしく難しいことなのだろうと思う。
■個々の内に湧き出る「愉しさ」であったはずのものは、そのうち、怒濤のように押し寄せる外来基準の「刺激」で置き換えられてゆき、それは次第に重たい「圧」や「痛み」に変質してゆく。(それが「圧」や「痛み」として感覚できているうちは、まだいいのかもしれない…)
■けれど、少なくとも家庭という環境においては、僕ら親が”防波堤”となって、そうした「内発する愉しさ」を根こそぎ奪い去ろうとする大風・荒波をなんとか防いでやりたいと思う。
■ま、なにはともあれ、娘よ、まずは遊べ。阿呆のように遊べ。