函館で上映&ワークショップ2

■函館2日目。今日も市内の小学校でスライドトーク&ワークショップ。
■今日もまた、楽しかった。それにしても、小学生が書く、手癖・理屈で凝り固まっていない澄んだことばには、ドキッとしたり、ハッとさせられたり。
■下は2歳の男の子から、上はその子のおばあちゃまかな…?と思える保護者まで、どの参加者がつくる作品にも、それぞれの思いがぐっとこもっていて、ひとつひとつが何ともいえない魅力を放っている。
■いや、何より、黙々と、そして楽しそうに自分の作品に向き合っている参加者一人ひとりの姿そのものが、各々ひとつの「作品」であるかのように美しく見え、感動を覚える。
■画用紙に、拾い集めたバラの花びらを丁寧に貼り付けていた子が、そのほのかな匂いに気づき、にっこりと微笑んだ。ああ、何と素敵な光景、何と素敵な瞬間だろう。
■ある女の子は、校庭の片隅で拾ってきたクロマツのまつぼっくりを色鉛筆で描いていた。そこには短い文が添えられていた。その言葉を読み聞かせてもらったとき、僕は今回のワークショップ中で特に強く胸を打たれた。
(ただ、「胸を打たれた」と言いながらも、その正確な文面を覚えていないのがお恥ずかしいだけれど…本当に申し訳ない…。)
■一字一句をそのままお伝えできないのが残念なのだけれど、でも、その意は充分伝わると思うので、覚えている限りでその分を紹介したいとおもう。
「まつぼっくり」
かたくとじているとおもっていた
まつぼっくり。
でも、上や下からみると
すこしひらいているのがわかった。
■文学的な飾り気も、驚くような飛躍も衝撃もない、なんていうことはない文章だった。「あら、そうなの。」と、何気なく聞き流してしまえる言葉かもしれない。
■でも僕は、この言葉に触れたとき、思わず「ああ、これぞ真髄!」と叫びだしたくなってしまった。そう、じつは僕は、そういうふうにものごとを見つめる作法を学びたいがために、重たいカメラを抱えて日々森に入っているのかもしれない。
■ものごとを、あえて「上や下から」見ると言うこと。そこでいままで知らなかった何かに気づくということ。そして何よりも、それに気づくことができた自分自身の変化にきちんと思いをとめ、さらには、胸中に湧き起こったその思いを、自分自身のことばに託して外に放つということ。
■彼女が何気なく綴ったこのことば(詩)は「硬く閉ざされていると思っていたものが、じつは柔らかに開いていたのだ」という発見を歌っている。きっとそれは、彼女と彼女が拾い上げたまつぼっくりとの関係のなかから生まれてきた、純粋に「彼女の彼女による彼女のための発見」だったであろうと思う。
■でも僕は、その発見の価値に秘められた深い「普遍性」を、彼女の詩から感じずにはいられない。
■36歳オヤジのゲスで無粋な発想でこの詩を汚すことになるかもしれないけれど、敢えて言えば、今のこの、日々息苦しさを増してゆくような世の中において何よりも求められるのは、彼女が経験したような何気ない視点の変換であり、それを価値あるものとして心に刻み、自分に生じたその変化を自分自身の実感として喜ぶという経験だと僕は思っている。
■「閉じてると思っていたものが、ね、本当は開いていたんだよ!」
■きっと、開いていた(開いた)のはまつぼっくりだけじゃない。それは、ほかでもない、彼女自身のいのちをみつめるまなざしであるし、そして、彼女のことばを聞いた、すくなくともこの僕の心もまた、やっぱりすこし開いたのだ。
■今日は彼女に、素敵なことばを聞かせてもらった。なんて希望にあふれたことばなのだろう。いいなぁ。明日もみんなで生きていけるね。えっ?ちょっと大袈裟に喜びすぎかな、オジサン…?でも、このワークショップをやって本当によかったよ。有難う。