危ぶむ声

<大飯原発>再稼働、政治判断へ 安全委が審議終了【河内敏康、野原大輔】
毎日新聞 3月14日(水)2時32分配信
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20120314k0000m010106000c.html
という記事に、以下のような文面があった。
「再稼働が実現しなければ、5月には全基が停止する見通しで、電力使用量がピークとなる夏場の電力供給を危ぶむ声も出ている。」
物足りなさを感じたので、試みに、上記文面を一部書き換えて補記としてみた。
「再稼働が実現すれば、以降は各地の他基も芋づる式に再稼働する(かもしれない)見通しで、未だ原因究明どころか正確な現状把握すらできていない東電福島第一原発事故の二の舞を危ぶむ声も、民族や居住地域を越えた世界の津々浦々から出ている。」
前者も後者も、どちらも「危ぶむ声」である。その意思が求める結果において相反する「声」である。
さて、いまどちらの「声」に真摯に耳を傾けるべきか。そのどちらにこそ人間としての真剣さと切実さをもって応えるべきか。
できれば、その「声」を発している人々の顔や立ち姿を脳裏に思い浮かべながら、わたしにつながる具体的なこととして、この「声」について考えたい。
つまり、誰が、どんな顔つきで、どこから、誰に向けて、どれくらいの真剣さをもってその声をあげているの~?っていうことだ。
後者については、真剣に全人格をもって切実に声をあげ続けている人を、僕は何人も思い浮かべることができる。
でも、前者について真顔で本気になって危ぶむ声を聞かせてくれた人とは、実体験としてもメディアを通じても、残念ながら出会ったことがない。
「そういう声があるらしいよ」と“伝聞”や“評論”を知らせてくれる人はたくさんいるけど。
ともあれ、もし仮に、それら「危ぶむ声」のどちらもが、実存する人間ののっぴきならぬ切実さ、誠心誠意から出されたものだとするならば、それら相反する「声」の双方に応える方策は本当に無いのか、知恵を絞って考えたい。
いのちには、知恵がある。ましてやヒトには。人間には。