取材/聴くこと

■30日、札幌からお客様。写真家の中島宏章さんとライターの林心平さん
■中島さんの発案である企画を進めているそうで、その取材対象者の一人として光栄にも取材をしていただいた。
■同業者であり若手気鋭の写真家・中島さんが企画し、また僕と同世代でライターとして各方面で大活躍中の林さんの取材とあって、僕もどうやらいささか余計に気合いが入ったようだ。我ながら、いや、よく喋った(笑)。
■でも、吐き出したことばや思いを誤解無く受け止めてもらえている(かもしれない)という安心感、さらには、もしかしたら共感をも覚えてもらえているかもしれないという甘美な期待感は、自ずと聴かれる側の人を饒舌にさせるのかもしれない。
■実際、聞き手の林さんの佇まいには、いささかの強引さも押し付けがましさも感じられず、また、こうした取材でよくありがちな”あらかじめ取材者サイドに既定ストーリーありき”ではない「取材のニュートラル感」があり、とても心地よく受け応えをさせていただいた。
■「聴く力」とは、姜尚中氏の著書名だったかな…。まあ姜氏はさておき、そうした、人の言葉に耳を傾ける力、能力、もしくは姿勢、心持ちというものが、人と人とのコミュニケーションの場にはやはり必要なのだなぁ、と、あの日のインタビューを振り返りながら思う。
■で、我が身に引きつけて考えると、結局写真家の資質として欠くべからざる能力も、やはりその”聴く力”なのかもしれないな、と思えてくる。
■時に饒舌で、時に寡黙で、時には全くの沈黙さえ呈するこの世界の風景、世界の万象。それに対しひたすら忍耐強く意識を向け続け、レンズの通して不意に立ち現れる刹那の光陰の綾、存在のウネリの様をそっとすくい穫る。
■それはまさに、”世界に聴き耳をたてる”行為に他ならないと、僕は常々考えている。
■いうまでもなく、「撮る」という行為は、決して「視角」だけによるのではなく、もっと総合的な感覚を緊張させ、かつ能動的に稼働させる行為だと思う。とりわけ「(撮るために)視る」ことと「聴く」ことは、意味的に非常に近似した営為なのではないかと感じるのだ。
■余談になるが、僕の2冊の拙著がどちらも「音が聞こえる/音を聴く」ことから物語りが始まってゆく構成になっているのは、まずもって僕の物語り構成力の恐るべき低能さの偽らざる証拠である訳だけれど、その一方で、じつは僕にとっての「写真」行為における「視る」と「聴く」がほぼ同義であるということを半ば無意識的に形にしてしまったということなのかもしれない。
■とまれ、聴く力。大事だ。
■しかしじつのところ、それはいま、そのテンションを保つのがとても難しい能力の一つかもしれない。
■敢えて「聴く」をせずとも、必要以上のものが自ずと「聞こえてきてしまう」、いま。
■むしろいまを生きる我々ヒトたちに本能的に求められているのは「如何に聞かずにいられるか/もし聞こえてしまっても、如何にそれを心に留めないでおけるか」という、”耳を塞いでいる力”の方なのかもしれない
■聴くことは、つまりその対象と「関わる」こと。それは時に、結構しんどい。
■特に、”強く”、”声高で”、”煽情的な”響きが周囲を充たしている時ほど、それらを真っ当に「聴こう」とするのは、かなりしんどい。
■そういうときは、ただ「聞かされる」に任せるか、もしくは耳を塞いでしまう方が、楽だ。
■でもそれだからこそ、いまこそ聴く力は鍛えられる必要があるのかも知れない。「聴き出す力」といってもいい。
■自ずと「聞こえてくる」声や音は、時として、ことさらに”聞こえ”がいいような加工がなされていたり、もしくは聞く者のしんどさを予め軽減するために音の”芯”が巧妙に抜き去られていたりする。誰かが、それをする。
■自ずと「聞こえてくる」音や声の向こう側に潜む、低くかそけき「背景音」をこそきちんと聴き取れる耳をもつこと。
■耳を塞ぎたくなることの多い昨今だからこそ、やはりしっかりと「聴く力」を磨いていたいものだとおもう。
■…と気づけば、中島さん林さんの取材の話題から、随分と脇道にそれてしまった。
■中島さん、林さん、またお会いしましょう!