君が代、誰の為?

昨日の「君が代ピアノ訴訟」の最高裁判決にがくりときて、今朝、新聞をみてまたガクリ。北海道新聞朝刊。一面記事になっているとはいえ、「道内企業、新規採用増」という経済ニュースに順ずる扱いだ。タイミングが悪かった、とは言い切れないもどかしさを感じる。でも、社説で扱っているからまだいいか。
それにしても、恐ろしいことになってきたなぁ。
「教育公務員は、学習指導要領に基づく職務命令を正しく履行しないと処罰します」ということ。そこに個人の思いが介入する余地はない、ということ。あなたがどう思おうと、決めた事には何が何でもしたがってもらう。それが嫌なら痛い目をみても仕方ないよ。そういう発想が、最高裁で支持されたという事。
なんと堅苦しいのだろう。教育の場なのに。学校なのに。
もしその先生が「伴奏したくない」と言えば、ほかの方法を探せば良いではないか、と単純に思う。喜んで「君が代」弾きます!という人間は他にいなかったのか?もし他に代わりがいないのなら「じゃ、どうすればいいかねぇ?」と、職員室のみんなで考えを寄せ合って、自分達で答えを出せば良いではないか。一番簡単なのは、すでに「君が代」が録音されたテープを流せばいいのだと、気が付かないのか。
いや、テープではダメなのだ。テープを使ったなんてことになれば、今度は校長が処分されてしまうのだ。あくまでもテープではなく、嫌がる先生に無理強いしてでも伴奏をさせる、そういう職務命令を出さなければ、校長の管理責任が問われる「仕組み」になってしまっているのだ。校長だって人間だ。自分が処分されるのはたまらない。
ああ、なんと柔軟性が無いのだろう。「管理」の名のもとに、皆がガッチガチに縛られている。校長も、教員も、皆、厳重に「管理」されている。
そもそも、「君が代」が演奏されるのは、一体誰の為なのか。演奏される場は、入学式であり、卒業式だ。それは誰の為の場なのか。そのそも、その舞台である学校は、ひいては「教育現場」とは、誰の為のものなのか。
いうまでもない。主体は子どもだ。
さて、本来の「子どもにとって…」という視点に帰ったとき、はたして「君が代」の伴奏がある特定の教師によって為されるのか否か、生伴奏で為されるのか否かは、裁判沙汰にまでしなければならぬほどに大事なことなのだろうか。ある教師の教員生命を掛けさせてまで問題にしなければならないことなのだろうか。そうした極めて瑣末な事で争いをすることが、当事者である子どもたちにとってどういう意味をもつというのか。
そもそも「君が代」(広義の国歌と言ってもいい)を学校で歌う(歌わせる)のは、いったい誰のため?
大人が、大人の為に決めた論理で、大人を(校長も、伴奏を強いられた教員も)がんじからめに縛っている。管理する。それを子どもの一番晴れがましい「入学式」で、子どもたちに見せ付ける。はたしてこれが、教育なのだろうか?
しかし、悲しいかな、すでに東京都の教育環境においては、「柔軟」ではダメな事になってしまったのだ。個人の思いを職員室に持ち込んではダメなのだ。それを主張してはダメなのだ。いや、ダメなように「した」のだ。東京都の都政が。いや、そうした都政を選んだ多数の東京都民が。
また、国旗国家法や新しい教育基本法がそうした都政を後押ししていることは紛れも無い事実だと思われるから、こうした状況にいまあることは、東京都民に限らず、僕ら一般市民にも責がある。それらの法律・国策を「良しとした」のだから。
「管理」「上意下達」「強制」「処分」「罰」そして「国策」。これらの言葉が、学校に、地域の教育環境に、子育ち環境にジクジクと浸透していくのを、僕らは自分の子どもの背中越しに眺めている。でも、はたしてそれでいいのだろうか。