在京日記、まとめて一気に

東京から引き上げてきて、いま札幌にいる。在京中の備忘録として以下にいくつかの印象に残ったことを書こう。
■上京直前、北海道長沼町
「名前は、呪いですね」とある若いお父さん。そのとおり、と痛く同意。名づけとは呪術を施すことなり。いや、名づけに限らず、親はそもそも子にとっての”呪う者”かもしれない。呪う者としての覚悟を腹の底に秘めつつ、親は子とともに歩めるか。
■下北沢
あるイベント会場で引き合わせてもらったドラマーHさんが、今度わが町で有志仲間と企画中のめむろハッピーフェスでライブ出演依頼しているミュージシャンKさんと親しく仕事をされているとのこと。ささいなことかもしれないが、これで、ハッピーフェスがまた一つ楽しみになった。
■東京・市ヶ谷~九段下
市ヶ谷でカメラ雑誌の打ち合わせ。その後、靖国通りの桜並木があまりにも美しく満開なので、それを愛でながら、徒歩で九段下方面へ。
初めて靖国神社へ寄ってみた。境内には、これでもかといわんばかりに植えられたサクラ。戦没者を祀るこの場所に、こうまで徹底的に桜を植えることの意味とは…。
僕はやはり、広義の”呪術”ということについてについて考えざるを得なくなる。その枝、花びらの一枚一枚に、ずっしりと重い意味を負わされてしまった桜を、そっと見上げる。
■鎌倉
いつも世話になっている絵本作家Nさんを訪ねて鎌倉へ行くことになっていた。それを、札幌で久しぶりに会った知人に何気なく話すと、「鎌倉へ行くなら、ついでに、長谷でカフェをやっている私の友人も訪ねてみて!」と。で、行ってみることに。
長谷駅で降りて、教えられた道順を歩く。と、目的のカフェ直前になんだか雰囲気のいい神社さんが。うららかな春の日の下で桜の花や神木の巨木がやさしく「おいでおいで」をしている。つい寄り道を。
なんだかいつまでもそこにいてしまいそうな居心地の良さだったのだが、いや本来の目的はカフェ!と思い直し、境内を2回り程したのちに、神社をあとにした。
で、カフェについてみると。おお「定休日」…。店舗の中もひっそり静まりかえっている。
ま、こんなこともあるさ…と、あきらめて先を急ぐことに。でも、人の紹介できたのだから、せめて書置きでもしていこうと思い直し、自分の名刺に短いメッセージを書くことにした。
「札幌の知人の紹介で…」とあれこれ書いたのだけれど、なんだかうまくまとまらない。で、2枚目を書いていた、ちょうどそのとき。カフェの玄関先にキキッと止まったママチャリが。
ハンドルを握りながら怪訝そうにこちらを見つめていたのは、ちょうど買い物からもどったカフェ店主Fさんだった。
手短に挨拶をし、ここに来た経緯を告げると、「店の中は、今日は”家モード”で、洗濯物が干してあったりして入れないのですけど、ちょっと冷たいコーヒーでも…」と。で、とおりに面した玄関先の石段に二人で腰を下ろし、暖かな春の青空の下でしばしお喋り。カナダのこと、アラスカのこと、などなど…。
しかし、話しが進む中で、驚いたことが判明。なんと、今日僕が会う予定になっている絵本作家Nさんと店主Fさんは、以前からよく知っている仲だというのだ。単にカフェの店主と客の付き合いなどではなく、それ以前の交友関係があるという。ええ?この広い鎌倉で?
人との出会いとは、じつに不思議なものだ。
NさんとFさんが知り合いだったというのもなんだか充分おかしな話だけれど、よくよく考えると、もしも僕が神社に寄り道していなかったら…、とか、名刺のメッセージを書き直していなかったら…、とか、そもそも札幌の知人に鎌倉訪問の計画を知らせなかったら…、きっとこの店主Fさんとの出会いそのものがなかったのだろうな、と、不思議な気持ちになる。
さて、その夜はNさんと歓談。小町通の裏路地の焼き鳥屋で。Nさんの娘さんも合流。いままでゆっくりお話したことはなかったのだけど、改めて互いの仕事の話をしてみれば、じつは互いに「呼吸」というものが大きな関心事なのだと意気投合。先日、徳島の人とも「呼吸」の話をしたばかり。これもまた、不思議なものだ。
■吉祥寺
田無の近くで児童書出版社A社の担当編集者さんと新作の打ち合わせ。彼女とはプライベートでも親しくしていただいていて、今回のファミレスでの打ち合わせの席には、彼女の愛娘Mちゃんも同席。生まれた頃から写真では見てきたけれど、うわぁ、大きくなったなっぁ…。
ようやく歯が生えてきたMちゃん。ノートパソコンの陰から「いないない、ばぁ!」をしてあげると、きゃっきゃと喜ぶ。たのしいねぇ。
でも、こんなふうに僕がMちゃんのお相手に夢中になっていては、ある意味で、仕事にはならない…。でも別の意味では、この環境で打ち合わせができるからこそ、何かよい本が作れそうな気もする。
打ち合わせのあとは、別の友人と待ち合わせて、吉祥寺で夕食。何を食べようか…。何の宛てもないので、ここは友人の「とりあえず、有名なところだけど、行ってみる?」という勧めにのって、吉祥寺で誰もが知っているというカレー屋にいくことに。
幸い席が空いていたので、入る。と、店内の壁のいたるところにかわいらしい絵が飾られている。
「おや、これは、Kさんの絵では…?」。
見るからに、いや明らかに、さっき打ち合わせをしてきたばかりの児童出版A社で以前お目にかかったことのある絵本作家Kさんの作品だ。一昨年、ちょうど自分の本の刷り上がりの確認でA社を訪ねた折、Kさんも色校の確認で来られていて、両書を編集者が「読み語りくらべ対決」などしてくれた思い出がある。そのKさんの絵が、なぜこんなにもたくさん…?
不思議に思いながらも食事をし、会計時、レジの人に「この絵、誰が書いたものなの?」と、ちょっと遠まわしに質問してみる。すると「オーナーです」。「オーナーって、どなた?」「M.Kです」。
ビンゴ。まさにKさんだ。
なんと、A社でご縁を持ったKさんの店に、A社の打ち合わせを済ませたその足で、まったく偶然にも来てしまったのだ。
これでKさんがその場にて「やあやあ!」ということにでもなれば、それはあまりにも出来過ぎだけれど、幸か不幸か(?)Kさんご本人はおらず。しかし、あまりの偶然のおかしさに、さっき食べたカレーの味もいや増して、じつに幸せな在京最終ディナーとなったのだった。
■いくつかの場所・いろいろなやり取りの中で
外の世界と交わること。意識を外へ向けること。いま直ちに身体的・具体的に外へ向かわないまでも、また、思いを内へ巡らせつつも、外へ通ずる窓は開いておくということ。生身の自己の姿を外へとさらすことを、少なくとも、あきらめてしまわないこと。
それら外へ向けた自発的営為というものは、少なからぬ”自己との対話や格闘”を必要とする。その”対話と格闘”の有無が、その人が発する「ことば」の質感に与える影響というものについて考えている。
ある人の口から吐き出されたことばで、そこにその人自身の”自己との対話”もしくは”格闘”の痕跡が見て取れることばは、僕にとっては、聞くからに(読むからに)、耳や目、そしてこころに重たく響いて、大変心地よい。例えそれが、虚飾のやさしさや演出された親しみやすさ、全方向的な配慮、流麗さ、論法の巧みさ、語彙の数量的な意味での豊富さ、既存の金言・格言などの一切をこれっぽちも備えていなくてもだ。時には張り詰めるような「無言」さえもが、実に雄弁にことばの意味を伝えてくる。
逆に、吐き出されたことばに何かしらの”格闘”の痕跡が感じ取れないときには、いかにそのことばが「上手」でも、聞いたこちらのこころが動かないことが多い。
かく偉そうに言う僕自身、かなり内向きで卑しい「保身の作法」を身に染み込ませているため、じつに軽いことばを吐いてしまうことが多い。そして、それに甘んじてしまってさえもいる。
しかし、できることなら、心身に染み渡ったその「内向き体質」の濁り汁を一切搾り出して、開かれていながらも重たいことばを、あたかも呼吸をするように、自然と表出させ得るようになりたいと思っている。
ま、それがなかなかに難しいのだが…。(これが僕のようなものにでもすぐできてしまうのであれば、世に詩人は要らない)