■最近のこと、順不同で。
■先週日曜は帯広でデジカメ写真絵本づくりワークショップ。コープさっぽろさんの主催。今回は大人の参加の方が多く、いつもとは違う面白さがあった!大人だって、子どもに負けちゃいませんゼ!
■先週、カンテレあらひろこさんと馬頭琴/のど歌の嵯峨治彦さんのユニット・RAUMAのライブがあったので急遽鑑賞。三味線・タンプーラ・舞・歌・デジュリドゥのユニット「草舞弦」との共演。
■特に後半の、異質な楽器同士が即興で醸す絶妙のグルーブ感をたっぷり楽しんだ。
■音の波とか色(音色)、音の長短、リズムって、おもしろいなぁ、とつくづく思う。「音」って面白いな、とつくづく思う。
■4人がそれぞれに発する音と音が重なりあい、ときに融け合うように、また、ときに反発し合うように響き合う。
■その大きな音の塊のなかで僕が自然と思いを馳せたのは、そのハーモニーのあり方云々よりもむしろ、「音」そのものの本質的な面、”音が世に在るときの、その在り方”のほうだった。
■おもしろい体験だった。
■しかし、こういう、まさにライブな緊張感が充ちる即興の場に、写真という芸で即興的に絡み刺さり込んでゆくということが、できないものだろうか…。楽しいだろうなあ。
■また別の日のこと。地元のNPO活動への協力をお願いしに、芽室のそば名人Mさん宅を訪ねる。
■こちらからの無理な依頼もご快諾頂き、Mさんの奥さんも交えての嬉しい歓談のひと時。ほがらかなMさんが聞かせてくれるあれこれのお話が楽しい。
■そのなかで、話題が「昔の遊び」のことになった。そのときのMさんの話が印象に残った。Mさん、昭和一桁世代。
■「僕のいたところは阿武隈川の近くでね。よく川遊びしたよね。泳いだり、淵に飛び込んで怪我したり、溺れかけたり。で、川であそんでいると、対岸の地域の子どもたちと、なぜかいつも川を挟んで喧嘩になってね。届かないくせに対岸に石投げたり、大声で罵倒したり。たがいに何か問題があるというわけでもなく、単に”川を挟んでいる”というだけなんだけど、何だか無性に”縄張り意識”みたいなものが湧いてくるのね。でも、別の日に町なかでその子らに会えば、別になんでもなく普通にしてる。子どもって面白いものでね」。
■単に川を挟んでいるだけで生じる縄張り意識。
■うーん、「境」があると諍いをはじめるのは、なるほど、人間の本性なのかなぁ。
■じつは、全く別の日のとある歓談の場でも、やはり縄張りの話題になった。それは、最近中国の資本家が日本の森林=水源、つまりは「水資源」を買いあさっているらしい、という話。
■ヒグマと人との”棲み分け”の話をしている途中である方が、「はなしはちょっとズレちゃうんだけど…」とことわりつつ、この話題を投げかけた。
■その方いわく「日本人は島国体質で”縄張り意識”が外国よりも低い。だからそうして外国の資本が土地を買うことを危機感無く許してしまう。国として、主張すべきは主張して、護るべきは頑として護らなきゃ」と。
■僕自身はそうした中国資本による山野の買い占めに関する著書を読んだ経験や生情報に触れた経験はまだないので、いったいそれが本当のことなのか、確たる見識を持たない。
■さらにいえば、それが、ちまたで噂されているときに概ね伴う「中国脅威論」という”危機感”(もしくは”漠とした恐怖感”)とセットで取り扱われるべき問題なのかについては、よくわからない。
■ただ逆に、この噂がどうも「中国脅威論」を裏付けるための一つの道具として使われているような雰囲気さえも感じてしまうことがあり、僕自身は、この話題に対して軽々に”これは困ったもんだ!”と腹を立てたり危機感を覚えたりするのは避けようとは思っている。
■ともあれ、これらの歓談や雑談のなかで、僕は、縄張り、「境」について考えた。
■それぞれの存在がそれぞれに在ることは、それぞれの間に、互いを明瞭に分つ差異と境界があることによってはじめて保証される。
■そして、そうした「個」が集まって織り成す「社会」の綾というものは、個が個としてちゃんと確立しているほどに、つまり、個を成立させる「境」がしっかりしているほどに、より多様で奥深い様相を見せるのだろうとは思う。
■身近なところでは、たとえば、私と妻の間に厳然と横たわる「価値観の壁」。これは、かの万里の長城よりも果てしなく長く、高い(笑)。もしかしたら「女と男の生物的な差異」よりも、よっぽど深刻なものかもしれぬ。
■でも、その壁、その境があるゆえに、ともに生きる日常に喜怒哀楽のウネリが生じているのも確かだ。他人と一緒に生きるのは、確かにもの凄く大変なことではあるけれど、それにもまして、何ともいえぬ不可解な”面白さ”がある。むしろ、不可解ゆえのオモシロさ、といえようか。
■さらには、そこに輪をかけて異質な連中=”子どもたち”という、まぁ本当にワケの分からぬ存在が加わることで、生活のダイナミズムはさらにさらに活性を呈してゆく。
■思えば、あの、カンテレあらさんたちのライブで感じた絶妙な「グルーブ感」。音がひとつところに留まらず、常に形を変えて動き続け、生き物のように成長してゆくかのようなあの躍動感と高揚感。
■じつは、家庭というありふれた生活の場にも、つまり生が活き活かされる場においてもまた、そうしたグルーブやウネリは、快いものとしてちゃんとあるのだろう。(常にウネリすぎてると、疲れ果てるけど…)
■その要はなんだろう。
■個が個としてあること。ちゃんと「境」を自ずから獲得していること。
■でもそれだけじゃないんだろうな。その境が、ときと場合に応じて外に向かって自発的に開かれていくということも、大事なんだろうな。
■異質なものが、あるときどこかで融け合う。その融け合う瞬間を待ち望みながら、変容の瞬間を待ち望みながら、柔らかで確かな「私」としての境を準備しておくこと。
■そんなことを思った。
■固すぎて、一切の変容を許さない「境」は、拒絶と断絶、さらにその先に危機意識と恐怖を生むだけかもしれない。しかもその境が囲んでいる範囲があまりにも狭いと、そこに待ち受けているのは「自家中毒」という悲劇かもしれない。
■昨日6日の北海道新聞朝刊2面「月曜”考”」欄で昆虫学者の矢島稔さんも言っていた。
「狭くなったら危険です」
■なるほどなぁ、と思う。
■今日も新聞に、息子が親を殺した記事が載っていた。親が我が子を殺すという事件も、最近マスコミをつうじてよく目にする。
■僕はそれを目にしながら、やはり「境」、そして「狭さ」について考えてしまった。
■マスコミが流す情報の傾向をよりどころに軽々に社会状況を断ずる気はないけれど、ただ、身の回りで起きる出来事も含めたいろんなことがらを見聞きするにつけ、なんだかいろんな意味で「世の中が狭すぎる」のではないかなぁ、とは思う。その狭さ故の閉塞感の現れの一つとして、いま、さまざまな悲劇が立て続けにマスコミをにぎわしているのではないかと、個人的には考えている。
■人は自らの「境」をもっている。だから個として生きている。
■しかし、あたりまえのことだけれど、その境のすべてが、自分で意図し「よし!」と納得ずくで構築したものではない。誰でも、知らず知らずのうちに、身の回りの状況や他の誰かが規定し構築した境界線が自分を取り囲むのを容認しながら生きている。
■ただ、その「境」がくくる範囲が、なんだかちょっと狭すぎやしないだろうか、と思うのだ。そしてその「境」そのものが、のり越えようと思ったときにちょっと高すぎやしないだろうか、または何かに向けて開かれてゆこうとしたときにちょっと固すぎやしないだろうか、と思うのだ。
■「狭くなったら危険です」。自戒も込めて、このことは、その範囲をくくる「境」の問題とともに、大事に考えていこうと思う。
■そうだ、レオニの「あおくんときいろちゃん」、また読み返してみようかな。