学力

■全国学力テスト。その結果が公表され、北海道では、メディアが騒いでいます。北海道のこどもたちの学力が、47都道府県中、下から2番目だとか、3番目だとか…。
■数値化、序列化。
■どうして世のオトナたちは、こうも”数値とその比較による順序づけ”に埋没したがるのでしょうかね…。情けなさを覚えるとともに、つくづく不思議になります。
■僕は、「数・数値」によってある抽象的なことがらを定量化したうえで取り扱うということの利便性や有効性を否定はしません。それどころか、「数」という概念を生み出し、数学的思考を自由自在に繰ってきたヒトという生き物の類稀なる知性を、本当に素晴らしいものだなぁと思います。
■しかし一方で、僕は「数量化」と、それにもとづく「比較」「序列化」という利便性に富んだ方法が孕む”麻薬性”のようなものを警戒してもいます。
■「数」は麻薬です。それはモルヒネや大麻などというよりは、多分”覚せい剤”的な性質をもつ麻薬なのだと思います。
■目の前のモヤモヤしたものごとに対し、それを一発キメさえすれば、すっきりクッキリ世界がハレる。特に、自分がアッパー(上向き)傾向の状態にあるときには、その効能は絶大な幸せ感をともなうから、ついつい、何をするにつけてもそれをヤりたくなる。
■そして次第に、それなしでは、モノゴトと正面から向き合えなくなる。本当のところ、それをいくらヤったところで、対峙するモノゴトは本質的にはじつはちっともハレてなどおらず、依然としてモヤモヤとした状態で眼前に横たわっているというのに――。
■もちろん、実際に覚せい剤を使用してみたことはありませんので、これは勝手な想像にすぎませんけれど。でも、同じではないにしろ遠からず…というところではないかと思います。
■僕は日頃からつくづく思っているのですが、この国のオトナ(なかでもとりわけ、社会的にオトコ的な役割を一身に担ったオトナというもの)は総じて、この”数値化中毒”、そして”比較化・序列化中毒”に陥っていはしないでしょうか。
■それは大袈裟な物言いだ、と思うなら、例えば、毎日決まった時間にTVで放映されているスポットニュース報道を見てみましょう。
■「NY株価は、前日に比べ〇〇ポイント下落し…」と、ほぼ毎時間ごとに否応無く見せつけられるあの「数量比較」の営為というものは、いったい何なのでしょう。それを見せられる側にどのようなニーズがあるから、あの機械的営為が、飽くことなく、年がら年中、毎日毎日、毎時間毎時間、繰り返し繰り返し行われているのか。
■あれを見るたびに僕は、この社会がもつ、ある種、病的ともいえる”数的なもの”への執着を感じざるを得ず、それを端的に説明するのに一番適切なことばは”中毒”につきるのではないか…と思ったりするのですが、いかがなものでしょう。
■はなしがズレました。全国学力テストのことでした。
■繰り返しになりますが、僕は「数値化」そのものを否定はしません。いわゆる「テスト」と呼び習わされている、数値化による定量化・序列化、それに基づいて判断なり評価なりを下すという方法も、否定はしません。
■しかし、その方法論や結果・効能の見かけ上の判り易さ・利便性というものにモノゴトの判断の一切を委ねきってしまうこと、そのなかに埋没しきってしまうことは、厳に避けなければならないだろうと思うのです。
■いうまでもなく、「テスト」が行われる際に何よりも大事なのは、量ること・数値化すること・比較することそのものではありません。ましてや、序列化後の位置付けが高いのか低いのかに一喜一憂することではありません。
■本来曖昧で抽象的でつかみ所がなく、アナログ的なゆるやかさと深みに富んでいるはずのモノゴトを、敢えて無味乾燥な数値に置き換えるというときに、決して見失ってはならないこと。それは、その数値化という”力わざ”が何のために行われるかという”目的”の部分です。
■”学力”を点数で量るという。ある問題を与え、それに対する回答が模範解答に照らして正しいか正しくないかによって付与される点数の数量が変わるという。そして、その多い少ないを比較し、それに基づいてある判断を下すという。
■たしかに、そうした「学力テスト」によって量ることのできることはいくつもあるでしょう。子どもの「正解を導き出す力」、学校教育カリキュラムの習熟度、論理的思考力、などなど。
■ただ、出てきた結果を並べ「はい、数字が出ましたよ。数字はウソをつきません。全てが数量的に明らかになりました。比較の上、序列化ができました。あなたたちは下から数えて〇番目です。」と宣言し、それをもって一つの判断をしようとするとき、では、一体何のためにその判断を下すのですか?という問いを忘れてはならないと思うのです。
■もっと突っ込んで言えば、序列化し競争心を煽ってまで”子どもの学力をより高めねばダメだ!”と喧伝することの目的は何なのか。それは一体何のためであり、そしてより重要なこととして、一体全体それが”誰のため”になされることなのか、という問いです。
■学力テストとは、いや、そもそも子どもの”学力”とは、何のため、誰のために必要なの?
■それに対しては、永田町あたりからは、こんな声が聞こえてきそうです。
「グローバル化の進む社会の中では、国際競争力をつけなければ、日本の未来は無い。そのうえで、子弟教育は緊急の課題です。」
■これについては、多くは書きません。でも、ひとことだけ。僕には、この発想こそがすでに重篤な”ある中毒症状”の発露なのだと思わずにおれません。病気です。
■何度もくどいようですが、僕はテストという手法も否定しなければ、”学力”なるものを高めることが全く無意味だ、などといいたいのではありません。ただ、「学力向上!」を叫ぶ掛け声のなかには概ね、そうした”日本的オジサン臭”がかなり強烈に混ざりこんでいることに、僕は嫌悪と違和感を感じています。
■ところで、学力にまつわる”競争”ということについて、昨日ラーメン屋で偶然読んだ8/31付『読売新聞』の社説にこんな一節がありました。テーマはまさしく「全国学力テスト」についてです(読売新聞公式サイト社説欄より一部転記)。
「序列化や行き過ぎた競争は無論、避けねばならない。だが、適度な競争はあっていい。」
■これを読んで、「そうだよなぁ。”何が何でも競争はいけない”というのは極端すぎるな。オリンピックをみれば、競争が個々人の成長に与える影響が小さくないことは明らかだし。適度なものであれば、競争はした方がいいのだ。」などと、簡単に納得させられてしまいそうな自分がいます。
■でも、ここでこそ、いや、ちょっと待てよ…と踏みとどまらなくてはなりません。そして、ここでもまたあの問いかけをしなければなりません。
■その”競争”は、誰のための”競争”なのでしょうか?一体、誰が望んで始め、誰がルールを決め、誰が優劣を判断するところの”競争”なのでしょうか?
■これは、その競争が「行き過ぎ」ているか「適度」かどうかなどということには全くの関係のない、本質的な問題です。
(むしろ、そんなふうに話題を”程度問題”にすり替えることで本質から目をそむけようとするのは、やはり”麻薬的”なまやかし行為と言えるでしょう。こうしたオトナの常套手法には、いつでも注意が必要です)
■いま学力ということについて競争しようとしている、否、させられようとしている主体は、言うまでも無く、具体的な存在である子ども達個々人です。
■「いや、競争させられるのは、各地の教育委員会であり、校長たちであり、現場の教師だ」という見方もあるかもしれません。でも、実際に解答用紙を手渡され、筆を取らされ、正答を書き込むことを要求されるのは、子ども達本人です。
■しかし、そうして競争させられた後、その結果を享受する”受益者”は、だれなのでしょう。それがどうもはっきりしません。それは本当に、競争した主体である子ども達個々人だといえるのでしょうか?
■たとえばオリンピックアスリートは、「誰よりも速く走りたい。高く遠くへ飛びたい。自分ができる最高のパフォーマンスを実現したい!」という個々人の内発的衝動に突き動かされ、自らが思い描いた結果を我が手に掴む為に、自らの意思でその競争の渦中に赴いていくのでしょう。
■では、学力にまつわる”競争”はどうでしょう?
■どうも僕には、この『読売新聞』の社説にみられるような”学力にまつわる適度な競争”というものが、真に、具体的存在である子ども達個々人に益をもたらすためのものであるようには思えないのです。
■現在の社会論調にみられるその競争の”受益者”は、具体的存在であるところの子ども達個々人などではなく、先述したように、「これからのグローバルな国際社会における日本社会を担っていく存在であるところの子ども達」というような、抽象概念の積み重ねの域をでない、じつに曖昧な対象でしかないように思えます。
■子どもの学力の現状確認とその”力”の向上へ向けた取り組みというものが、真に子ども達本人の為のものとなるかどうかの誠実な議論を抜きにして、やみくもに数値化・比較・序列化の結果のみを持ち上げてある評価・判断を下すのは、子ども達に対して不遜であるだけでなく、じつに危ういことだといわざるをえません。
■なぜらなら、僕にはそうした「日本の未来が危うい!学力の底上げが急務だ!」と危機感を煽るかのような論調の背後に、いつか聞いた覚えのある「お国のために」「出せ一億の底力」という掛け声が薄っすらと聞こえてきて仕方がないからなのです。
■いまこそ早急に改善されなければならないものがもしあるとすれば、それは子ども達の”学ぶ力”というよりも、まず、彼らを取り囲んでいるボクらオトナたち自身の”自律力”なのではないかと思います。
■つまり、比較化・相対化、またそこに端を発する「全体主義」などがもつ”麻薬的誘惑”に身を委ねずとも、我が身一つでも混沌とした世界と向き合うことのできる”内発的思考力”、また、物事の表層の裏にしまいこまれた本質・核心部分をこそ凝視することのできる”眼力”なのではないかと思うのですが、どうでしょう。
■ついでに言えば、もしいま子ども達に対して、真に子ども達自身の未来のためになる”力”を教育によってつけてやれるとするならば、僕は、それはまさに”ことばの力”なのだと思います。
■豊かなことばの力の内には、論理を構成する力、物事の理を探り出しそれを命名・定義する力、因果を規定しそれを応用する力、自他の関係性を把握しそれを再構築する力など、算数・理科・社会の中で鍛錬されるべき力の要素が本来的に備わっています。
■子ども達のことばの力を豊かにするためにオトナができること。いまは、それをこそじっくり考えたいものだと思います。
■ただ、間違っても、「漢字や英単語を幾つ覚えているか」とか「何ヶ国語を話せるか」とかというような、判り易すい判断基準にのみ寄りかかって子どもたちを評価する事は、厳に避けたいものです。