平泳ぎ

なんと、富良野から乗り込んだ鈍行列車が、走行中、鹿に衝突。約2時間の足止め。否、1時間ちょっとの立ち往生。
こんなこともあるのだなぁ。
暇なので、停車中、以下のようなくだらない長文を書いた。
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■運動不足解消のため度々プールへ行くようになり、いま、すっかり平泳ぎが好きになった。
■通い始めた当初は、ご多分に漏れずと言おうか、クロールでキレイに泳ぐことが大きな目標だった。
■しかし、クロールで25mを難なく泳げるようになり、水の中にいることに心地よさのようなものを感じ始めた頃から、何故だか、キレイなクロールよりも俄然平泳ぎに魅力を感じるようになってしまった。
■我ながら何故なのだろうと思い、すこしばかり考えてみた。
■水泳という行為を「水中で自分がすすみたい方向に進むこと」と定義するなら、良く水泳するためには、とにも角にも水の抵抗による「進み辛さ」を何とかしなければならない。
■水の中を漕ぎながら考えた。とかく水中は進み辛い。…のである。
■で、水泳においては、そのどうしようも無い進み辛さとどう折り合いをつけるのかが要だろう。
■クロールという泳ぎ方は、その進み辛さを、両腕と両脚の連続的かつスムーズな循環動作が生み出す推進力で「絶え間なく克服」してゆく。
■「手で水を後方に押す」という推進に最も貢献する行程は水中で行い、次に水を押すための準備動作は抵抗の少ない水面上の空中で行う。
■その一連の動きは「無駄なく前へ行く」という目的に対して大変合理的だ。
■しかもそれを左右交互に無駄なく連続させるのだから、クロールは「常に」水に勝ち続ける。
■合理性に裏付けられた絶え間ない力の行使。それによる「行き辛さ」の克服、もしくは、征服。それがクロールだーーーと言ったら、言い過ぎだろうか。
■さて、それに対し平泳ぎはどうか。
■前後両方向への四肢の曲げ伸ばし動作を全て水中で行わなくてはいけないというフォームの都合上、推進しようと水を腕でかき足で蹴ろうとするたびに、その準備動作の途中でどうしても進行方向と逆の動きが生まれ、結果、余計な水との摩擦、新たな水の抵抗を自ら生んでしまう。
■前へ行くことを欲するほどに、かえって「行き辛さ」が生じる。避けられぬジレンマ。
■平泳ぎとは、ああ、何と不器用な「行き方」であろうかーー。
■しかし、それが平泳ぎで泳ぐということなのだ。
■では、人は、そのジレンマとどう向き合うのか。
■平泳ぎでは、手でかき足で蹴った直後、そこで得られた推進力を少しでも生きたものとするために、(時間としては僅かな間ではあるが)いったん水中ですべての動作を停止し全くの「バンザイ状態」の姿勢をとる。
■推進するための更なる動作を一切しないのだから、先ほどのひと掻き・ひと蹴りで得たせっかくの推進力は、その僅かな合間にさえ水との摩擦で自ずと減衰してゆく。
■しかし、そうして力が削がれてゆくことを我が身に感じながらもなお、水に対して「何もしないでいる」ことをあえて選び、「バンザイ」「お手上げ」をするわけだ。
■だけれども、それは決して、水の中での「行き辛さ」に対する“諦め”などではない。
■人は、ジレンマを抱えながらも、また、水に没した状態でひと時の「お手上げ」を自分自身に許しながらもなお、「自分の行きたいように行く」ことへの希求そのものを手放しはしない。
■「行き辛さ」を打ち負かすことは出来ない。少し進んでは、ひととき休む、その繰り返し。それでも前に、少しでも、前に。
■たとえそれが合理的・効率的ではなく、また、速さや勢いにおいては決して他の「行き方」に太刀打ちできないとしても。
■僕は、そんな平泳ぎがすきだ。