従わぬ者は

■やっぱり頭にきちゃうので、もう一発載せておきます。
「中山国交相「日教組強いところは学力低い」 発言後に撤回」
NIKKEI NET
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20080926AT3S2502N25092008.html

■上記リンクサイトの記述(中山氏の発言)を読んでいると、いくつかのことを思い出す。
■僕がある大人の集会で講演をさせていただいた後の交流会で、僕の普段の活動のうち、学校に赴いて行う講演活動の話になった。
■僕は、日ごろそうした活動の中で感じていることとして、僕のような部外者でもわかる現場教員の多忙の様、また特に、文化省の”猫の眼”行政に翻弄されて指導の組み立てに苦しんでいる現場の雰囲気などを紹介した。
■たとえば「生きる力の教育」。そういったカテゴリーの事柄に関して教員の方々は、限られた時間・予算・そして自分自身の経験的資質との間で、悩み、結構な苦労をしている。
■そんな部分で、部外者である僕のようなものを現場で有効に活用してもらうことで、こども達のために役に立てることがじつはあるのかもしれませんね、と。
■そんなことを言ったら、交流会参加者のうち、ある男性が突然声を荒げ次のようなことを言った。会社経営をされている方だった。
■「ええ?教員はそんなことのために外部から人を呼ぶのか?!なんで自分達で教えない。教師だろう。そもそも北教組の連中はそうやって自分の仕事をサボっているくせにアレをしろコレをしろと上に要求ばかり上げてくる。指導力が足りないのだ。そういう教師は辞めさせないと。学校は、校長の権限をもっと強くしないとダメなんだ。」
■その結構な勢いに僕は「おおっ」とたじろいだのだけれど、「いや、それでもですね…」と口を挟もうとした。
■そうしたら、その交流会の主催者である別の男性が「まあまあ。組合の先生も頑張ってますよ。むしろ組合活動を一生懸命やっている先生のほうが、子どものこともちゃんと考えていてくれる気がするな」というようなことを言って、場を収めてくれた。その方はPTA会長経験者だという。
■また、次のような経験も思い起こされる。
■10年ほど前、まだ僕が札幌にいたころのこと。そのころはまだ写真専業などというわけにはいかないので、ある職場で常勤職員をしていた。
■そこに、ある20才台前半の青年が「短期研修」ということでやってきた。ゆくゆくは親の経営する会社を継ぐらしいのだけれど、そのまえに異業種の現場でいろいろな体験をしたい、ということなのだという。
■言い方は悪いが、多分それは”御曹司”が受ける「帝王学」教育の一環であり、こうした研修を通し中小企業の実態を知り、さらには「こき使われる側の身になってみる」という体験のためだったのだろう。
■彼は遠からず、自らの血族関係のなかで「使う側」のトップに上り詰めてゆくのだろう。でも、僕は「一度は使われる側にたってみる」という発想自体はとても大事なことだと思ったし、なにしろ、その青年は明朗快活でなかなかいい男だったので、気持ちよく彼とともに仕事をしていた。
■しかしある日のこと。僕と上司が職場で雑談をしていた折に、どういう展開からだったかは忘れたが、旧国鉄解体、そして国労闘争の話になった。「国労ラーメン」が美味しいかマズイかの話だったか…。いや、もっとまじめに「不当解雇とは」という話をしていたかもしれない。
■すると、そこにその青年が現れ、すこし僕らの話を聞いたあとで、ちょっと皮肉な笑みを浮かべながらこう言い始めた。
■「国労の問題ってありますけど、でも、聞くところによれば、あの連中サボってばかりで仕事しないから、解雇されてもしょうがないってとこもあるんですよね。」
■きっと彼は、えてして深刻になりがちなこの手の話題を彼なりの方法で和ませようと、あえてそんなふうに口を挟んできたのかもしれない。その彼なりの気遣いは、感じられないでもなかった。
■しかし、それを言う彼の口ぶりと笑みを浮かべた表情の中には、同時に、やはりどうしても、彼の身に染み込んでいるであろう「帝王学」つまり「使う側の論理」のある種の冷徹さが感じられ、僕は正直、その一瞬、彼に対して嫌悪に近いものを感じてしまった。
■そして、その発言を聞いた直後に烈火の如く怒りを露わにした僕の上司の、まさに煮えたぎるような憤怒の表情が忘れられない。僕の上司は、その出自が、ニッポン的価値観のなかでの人種的マイノリティーであり、被支配的マイノリティとして規定されてしまっているがゆえの痛みの中で生き続けてきた人だった。
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■「使う側」の論理と「使われる側」の論理が違うことは当然のこと。だからこそ、教員や鉄道業従事者に限らず組合というものはあるのだし、交渉や議論の場がある
(じつは僕は、組合の運動というものがもっともっと活発な世の中であって欲しいと思っている。昨今よく見聞きすることだが、どうも各方面での”組合弱体化”は、結構深刻な事態に陥っているようだ…)
■そしてそれは、「自分の意図・計画に従わせたい者」と「それに従うようにさせられる者」というふうに関係を拡大すれば、たとえば開発者と地域住民との関係、また、政治実行者・統治者としての国家と市民との関係にもあてはまる。
■さらにさらに拡大することが許されるのならば、社会的立場における多数者と少数者との関係にもあてはまるし、はたまた、異なるイデオロギーや文化価値観をもつ集団(国家)間の勢力関係にも当てはめられよう。
■それぞれに存在と行動の論理が違うのは、あたりまえ。
■しかし、論理が違えば、そして、論理は違いながらも双方が同じ場に居続けることが求められるのならば、そこに何とかして妥協点を見つけ、何とかして双方がその場に居続けられるように、互いに汗をかきあうのが、やっぱり人の間のあるべき姿だと僕は思う。いくら”青臭い理想論だ”などと揶揄されようが。
(大地を耕し食を得る、とは、まさにヒトと大地とのあいだでのその営為に他ならない…などと、ついでに話を飛躍させてみたりして。笑)
■さて、では、いまの社会は、どうか。
■従わせたい者の言い分に従わない者は、ある固定化した分別基準のもとにパッキングされる。そして、従わせたい者は、そこに「自己責任」のラベルを大きくぺたりと貼りつけたら、「はいサヨナラ。あなたに退場を命じます」。
■そんなふうに、なってないだろうかなぁ。人の世が、そんな単純なものでいいはずがないと、思うのだけれどなぁ…。
■でも、中山氏の一件に限らず、またこの「帝王学青年」の件に限らず、たとえばネット上の「空気嫁。逝ってヨシ」とかいう常套句、またたとえば、いま現在東京都教育委員会で行われていることなどをみると、ああ…と溜息がでます。
■その溜息を、僕らは汗をかきつつ、ことばに換えていかないと。