怒りのあり方

怒りの向け方が違う、と思う。
ある場所を「死の町」と称した人間の配慮の足り無さを攻め、その人間を今居る立場から引きずり降ろすことでひととき溜飲を下げるより前に、もっと重大な「怒るべきこと」があるのではないか。
なにもその発言をした人物のデリカシーの無さを一切攻めるな、と言いたいわけではない。その発言故に当事者として本当に気分を害したり、現実として利害悪化が生じたとしたなら、正直に心から「けしからん!」と声を上げるべきだろう。
でも、敢えて言うが、その前に本気で怒るべき「相手」が他にいるのでは、と思う。
だって、ある町が、まごうことなき現実問題として、今現在、そしてこれから先、相当の長き間に渡って人がまともに暮らせない場所、つまり、(当事者心理とは別問題として)慣用表現としては妥当と言い得るであろういわゆる「ゴースト・タウン」になってしまった(させられてしまった)のだ。
どうせ怒るなら、そのあまりに理不尽な現実を生んでしまった「原因」、「本当の罪深さ」に対してこそ、いまはもっとしっかり怒った方がいい。(これは、66年前から、この列島にマジョリティーとして住む人間たちの継続的な課題でもあるのだけれど…)
確かに、特に悩み苦しみのど真ん中に居る当事者にとって「死の町」その他の発言は、怒るに値する、配慮と真剣さに欠けた許されざる態度であったのかもしれない。僕が当事者だったら、怒るだろうと思う。
しかし、誤解を恐れずに言えば、いまこの時点で怒りのエネルギーを消耗してしまうには、いくつかの意味で、それはいささか空しい怒り方ではなかろうか。
この件に限らずなのだけれど、特にマスコミを通じて提示される「怒り」のあり方には、個人的にとても違和感を感じることが多い。
どうも、人びとの「怒り」や「不安」の方向や強弱をある目的のために上手くコントロールしようとする「意図」がどこかで働いているのではないか、と変な勘ぐりをしたくなったりさえする。勘ぐる自分を「浅ましいな、俺…」と思いつつ。
「喜び」や「悲しみ」と同様、「怒り」をちゃんと自分のものとしてこの手のうちにしっかりと握りしめ、安易に他者に委ねないでおこうと思う。
私や私に連なる人たちのために、怒るべきときにちゃんと怒り、喜ぶべきときにこころから喜べるよう、自分の感受性くらい自分でちゃんと守っていよう、と思う。これ全く、詩人のことばの受け売りではあるけれど。自戒として。