指揮者/現実を作る

■今日は、某写真誌へ送る資料作成や写真展準備で、またも引きこもり。
■前の日記にも書いたが、最近家にいるときには、クラシック音楽を聞く事が多い。今日もPCに向き合いながらフォーレの「レクイエム」をなどを聞いていた。
■いま我が家にはフォーレのレクイエムのCDが2枚ある。一枚は、ミシェル・コルボ指揮/ベルン交響楽団による1972年の演奏。もう一枚は、つい先日購入したデュリュフレのレクイエムとカップリングになったルイ・フレモー指揮の演奏。
■そもそもこのコルボ1972年演奏版を聞いたのがきっかけでこの曲が好きになり、それ以来、久しくこの版だけを愛聴してきたのだが、今回、フレモー版、いや、コボル版以外の演奏を初めてじっくり聴いてみた。
■いや、驚いた。全然違う…。はっきり言って、フレモー版は、聴けない…。
■空に向かいすうっと立ち昇ってゆくような真っ直ぐな透明感。凛とした清浄感、空気感。ゆっくりとたゆたうように満ちてはひいてゆく静かな感情のうねり。
■この曲から僕が感銘を受けるそれらの要素のそれぞれについて、明らかにコルボ版が勝って聴こえる。
■確かにこの2枚のCDのそれぞれの演奏は、演奏楽団も声楽の構成も違うし、録音環境だって違うのだから、聴こえ方が違ってあたりまえだろう。しかし、指揮者によって、曲から受ける印象がこんなに違うとは…。
■僕はそもそもクラシック通では全く無いし、それどころか、音楽一般についての造詣そのものも、謙遜抜きで、かなり浅い部類に入るだろうと自認している。だからきっと、クラシック音楽に親しんでいる方に言わせれば「何をそんなに驚いているの?」というような程度のことかもしれない。
■指揮者が違えば曲が違って聞こえるのは当たり前で、むしろそれが無ければ「指揮者」の存在理由は半減するだろうし、また、聴衆にとっては、その違いを楽しむのこともまた音楽鑑賞の醍醐味なのだといえるのだろう。
■でも、僕にとっては、この演奏の違いは、ちょっと大きすぎた。
■ネットで調べてみると、このコルボ/ベルンの演奏は、フォーレ・レクイエムの中でも評価が非常に高いようだ。”名盤中の名盤”とのレビューがいくつもヒットする。
■僕は偶然その名演奏に最初から触れることができ、それを自分の中のスタンダードとしてきたわけだ。それが「幸」だったのか「不幸」だったのかは、僕には分らない。でもこれを機に、コルボ版レクイエムが僕にとって益々大きな存在意義をもったことは確かだ。
■音楽って、面白いな、と思う。今日も改めて音楽というものを見直した。
■音楽って、ほんと、生モノなんだな。だからこそ面白いし、すごいのだな、きっと。
■では、写真って、どうなのだろう…。考えてしまう。
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■晩飯のあと、町内某所へ。「まちづくり」についての有志懇談会。
■いや、「懇談会」などと書くと堅苦しすぎる。じっさいは、互いに持ち寄った美味しいものをつつきながら、和気あいあいと夜更けまでおしゃべり。
■「こんなことできたらいいね!」と、夢は大きく、前向きに。こういう集まりは、やっぱり楽しい。
■足元の「現実」にばかり目をやって、下を向いて、後ろを向いて、他人の揚げ足とりや「ダメなこと探し」に終始する時間は、苦しすぎる。
■もちろん、現実をないがしろにして良いとは思わない。所詮、皆、現実の中で生きている。
■今夜話した事柄にしても、楽しい理想の手前には、高くて大きく、複雑に入り組んだ「現実の壁」がある。
■こうして偉そうにモノを言う僕個人の生活に関してだって、足元にはいつでもヒタヒタと現実の冷たい波が押し寄せている(ああ、寒いよ、冷たいよ…笑)。
■でも、すでにある現実に丸のまま身を委ねることを自らに許し、現実を越えることを自ら諦め、そのなかで現実へのグチと自己弁護、損得勘定に明け暮れて一喜一憂して生きるのは、少なくとも僕の性には合わない。
■仮にダメな現実があるとしても、その上に”ダメじゃない現実”を創りあげる希望を抱けるのが、類まれな想像力をもったヒトという生物の、素晴らしい特権のはずだ。
■しかもそれを、意図して”楽しく”やってこなすことができるのだ。人間て、すごい。
(ただし、そういう「希望を抱けるに充分豊かな周辺環境」を本人が持ち合わせているか、もしくは、それを他者によって奪われてしまってはいないか、という問題はあるけれど…。いわれの無い偏見、構造的な貧困、劣化ウラン弾やクラスター爆弾によりその環境を奪われている人々・子供達のことを思う…)
■前向きの人々と希望を語るのは楽しい。そんな人達と互いに助け合いながら、自らの現実くらい、自らの手で時間をかけてコツコツ作っていけばいいではないか。「現実」って本来、そういうものだろ。…そんなことを改めて思った夜だった。