故人を偲ぶ”ニュース”とは

■昨日(2日)の昼過ぎ、13時のNHKニュースだったろうか。
■トップニュースは、先のインドのホテル占拠事件で死亡した邦人男性の葬儀が行われた、という内容。
■葬儀場の映像と、葬儀がどのように行われたかという事実関係のコメントのあと、故人の友人2名のインタビュー録画映像が続いた。
■ひとりは「彼とは互いにフォークソングクラブに所属し、互いの家で泊まりあう仲だった。残念でならない…」というようなコメント。
■もうひとりは「彼は僕ら友人たちのなかではヒーローのような人だった。どうして彼がこんなことになるのか、解らない…」と、声を詰まらせながら。
■その後、カメラはライブのスタジオにもどる。
■いま流されたそのインタビュー映像をモニターで見ていたであろうアナウンサーのうつむいた表情が画面に映る。そして、一呼吸あったのち、アナウンサーはその目をゆっくりと上げる。故人への同情の念か、はたまた不条理な悲劇への怒りか哀しみか、憂いをにじませたようなその瞳が、カメラを通してこちらを見つめる。そして彼は「次のニュースは…」とことばを継いだ。
■つまり、インドの件は、それだけだった。葬儀の様子と、友人のコメント。たったそれだけの内容がそのニュースの全てだった。それが、今日の昼過ぎのトップニュースだった。
■これを見ながら、改めて僕は、ニュースとは何か、報道とはなにか、ジャーナリズムとは何か、また、公共放送とは何かを考えざるを得なかった。
■これは、いったい、誰のための、そして、何のための”ニュース”だったのだろうか――
■たしかに僕は、この”ニュース”を通じて、葬儀があったという事実を知った。そして、インドで起きた事件についてまたひとつ情報のコマを増やした。また、このことを通じて、あらためてこの事件の全体像に思いを馳せた。
■さらには、友人二人のコメントを通して「彼がこんなことになってしまった」ということの悲劇性を認識するに至った。この事件がじつに悲しい事件であったことを、至極当たり前のことではあるけれど、再度確認するに至った。
■きっと、この”ニュース”報道によって行われた情報伝達のうちには、僕も含めそれを受け取るべき不特定多数の視聴者にとっての、何かしらの「知らされる意義」が含まれていたと認めてもいいだろう。この”ニュース”が全くの無意味だとは、僕は決して思わない。
■だがしかし、と思う。
■さてさて、この事件について大変重要であるはずの、「どうして彼がこんなことに…」という問い、つまり、このさき決して繰り返されてはならない悲劇を生んだ事件の原因そのものへの切実なる問いは、いったいどこへ向かったら(向けられたら)いいのだろうか。
■なにしろ今日の昼過ぎのトップニュースは、その問い自体には一切深入りせず、悲劇を悲劇として伝えたままで、次のニュースへと移っていってしまったのだ。
■はたしてこの問いはこのままで、つまり、収録ビデオテープの中にそっと封じ込められたままで、荼毘に付された故人の遺骨同様、TV局のお蔵の棚にひっそりと安置されてしまうだけなのであろうか――
■うーん…。考えてしまう。
■「惜しい人を亡くして残念だね。なんとも悲しくて、許されざる事件だね…」とは思う。心情はゆすぶられる。
■でも、それだけでいいのか――?
■今回の件に限らず、僕は以前から、いわゆる「報道」というものが、特に人の”情動”に働きかける性質を持つ情報の提供をする際の作法について、たびたび違和感を感じてきた。
■特に民放TV報道がよく行う、物悲しかったりオドロオドロしかったりするBGMや、不安を掻き立てるような手ぶれ映像や隠し撮り風映像をともなった、見るものの感情に積極的に働きかけてくるような情報伝達の仕方に強い嫌悪感をもっていた。
■それは感情の意図的かつ一方的な操作であり、それによって少なからぬ視聴者は、無意識のうちに自律した判断意識をそがれていくことになるからだ。
■昨日のインドの件の放送に関しては、BGMも極端な演出映像もないから、それらの悪例と全く同列に語ることはできないだろう。
■しかし、僕はこの「葬儀が行われました」報道に関してもやはり、そうした悪例にどこか通じるような違和感を感じないわけにはいかなかった。
■報道が、事件・事故の本質的課題を問わずして、ことの悲劇性・不条理性のみを伝えて終わる、というあり方。視聴者の「理」や「論」に働きかけるのではなく、「感」や「情」のレベルで情報伝達を寸止めする、というやり方への、拭い難い疑念だ。
■はたして、僕らはこの”ニュース”に触れる事で、何について理解を深め、それに基づき何を考えるべきなのか。
■僕らはただ、涙をこらえてコメントをするこの二人の旧友に同情し、また、優秀かつ善良な人物であったに違いない故人の死を惜しみ、彼を巻き込んだ事件の不条理に、やり場の無い怒りの感情を高ぶらせていれば、もうそれでいいのだろうか――
■逆にいえば、伝える側であるNHK報道デスクは、いったい僕らに何を得させたくて、こうした取材をし、こうした編集をし、こうした”ニュース”を僕らの前に提示したのだろうか――
■もしかしたら、「情」レベルでの情報寸止めという方法を選んだ側には、じつはこんな言い分があるのかもしれない。
■「悲劇の原因など、改めて問うまでもないじゃないですか。それはすでに自明なのですよ。すなわち、”テロ”ですよ。過激派の存在、テロリストの存在こそが原因です。それはすでに皆さんおわかりのことですよね。この事件の問題の所在は、それをもってして十分明らかではないですか。いま善良なるミナサマやワタクシタチがなすべきは、無法を行う過激派に”怒り”、テロリストを”憎む”という事ではありませんか」と。
■そうなのかな――それでほんとにいいのかな――