新日曜美術館「志村ふくみの仕事」

さっき観たNHK教育の新日曜美術館「虹色のいのちをつなぐ 染織家・志村ふくみの仕事」が良かった。志村氏へのインタビューを中心とした構成だった。
志村氏の色を巡る論考や発言には、常に「いのち」が深く関わる。氏は、糸を染める染料を「植物から頂いている」という。
花から色を「頂く」ときの話が面白い。氏いわく、染物として一番美しく色が出るのは、開いた後の花ではなく、蕾のときなのだそうだ。そしてその色は、「色が匂い立つよう」だという。
開く直前の蕾という、静から動、言い換えれば”死”から”生”への移り変わりの刹那にこそ「いのち」の本質がきらめき立ち昇る、ということなのだろう。
じつは、僕は以前、自然グラフ誌のフォトエッセイ連載の春号で、蕾にまつわる拙文を書いたことがある。それはまさに、開く直前の花が持つ濃密な色とその生命感についての僕なりの感慨だった。
今まさに野に放たれんと、ぎりぎりに引き絞られた弓矢の如く、震えるようなテンションの中にグイと充填された「至極の色」。たしかにあの色はまさに「匂い立つ」と表現すべき色なのかもしれない――。僕は「なるほど…」と一人勝手に納得しながら、氏の話を聴いた。
氏は、これから開こうとする花を摘み取ってしまうことに対して後ろめたい思いを抱いているそうだ。しかし、そうした思いを自身の背に負いながら、やはり蕾を摘み、それにより得られた至極の色で糸を染め、布を織る。花から頂いた「いのち」を色に昇華させ、織物という人の暮らしの中で活かされるものとして、新たな生の形を与えてゆく。
そうした営みを淡々と何十年と積み重ねてきた氏の姿勢。僕は大変大変おこがましくも、そんな氏の姿にいたく共感を覚えてしまうのだった。
あと、いまも氏が格闘を続けているという「赤」という色についての話もいろいろと興味深かった。
「赤」はえらく手ごわい色なのだそうだ。それはほかの何色をも助けとして必要としない、完全に自己完結した色なのだそうだ。それゆえに、色として手におえない強さがあるのだという。
だが、「赤」にまつわることで何より印象深かったのは、氏が「赤は誰もが自分の中に持っている色だ」ということを言ったあとで、ぽろりと「赤は女の色」と表現したことだ。
氏はその後すぐに「いや、人間の色といってもいいかもしれないけれど…」と言い直した。けれど、僕は「赤は女の色」というその表現に、一瞬どきりとし、しかし同時に、今まで味わった事の無い新鮮な感覚を覚えた。
氏が口にした「赤は女の色」ということばには、たとえば「男は黒、女は赤」といった手垢まみれのジェンダー的色彩感覚のいやらしさ・息苦しさ・胡散臭さは微塵も感じられなかった。むしろ、えらく重たいのだけれどその一方でじつに爽快な、なんとも不思議な響きがあった。
それはやはり、女性として生きている氏が、赤も含めた色というものをすでに自らの「いのち」の一部として自身の中に取り込んでいるからなのだろうな、と思う。
花・色・いのち。そして、生・性・静(植物)。言葉遊びにすぎないけれど、なかなか面白い。