映画『アメリカばんざい』 藤本幸久監督作品

■時折一緒に仕事をする映画監督・藤本幸久の最新作が、26日から東京で上映されている。
■タイトルは『アメリカばんざい―Crazy as usual』。
■イラク統治で泥沼の状況に陥っているアメリカ合州国の、本国における現状を2年以上にわたって記録したドキュメンタリー映画だ。
■「戦争をする国では、どんな人が、どんな暮らしをしているのだろう?」
■そんな思いで始められた現地撮影のなかで見えてきたのは、戦争という”政治”が、それを行使する側の国や社会、そしてその構成要因である個々人にじつに深刻な”病理”を植え付けるのだという、ゾッとするような現実だった。
■つまり、「戦争で痛めつけられるのは、バクダンを落とされる側だけではない」という厳然たる現実。それが、今、アメリカという大国の根底を痛々しく蝕んでいる。
■詳細については、ぜひとも映画を観て欲しい。
→『アメリカばんざい―Crazy as usual』公式サイト
*現在、東京の映画館「ポレポレ東中野」にて上映中。
■そして、そのあとで、じっくりと考えたい。
■僕らが居住するこの日本列島を統治しているところの国の政治が、現在、アメリカという国とどれほど緊密な関係にあるのかを。
■そして、その関係の行く末が、日本列島に住む我々自身にとって、如何なるものとなり得るのかを。
■ま、映画を観ずとも、いますぐWEB検索で「沖縄 基地 思いやり予算」だとか「日米 軍事一体化」と引いてみるだけでも、その片鱗は見えるかもしれない。
■ところで、僕は、この映画のタイトルがなかなかいいと思っている。
■当初、この映画は「戦争をする国・アメリカ」という仮称をつけられて撮影が続けられていた。しかし、2ヶ月ほど前に藤本から渡された最終公式チラシには、現行の『アメリカばんざい』のタイトルがあった。
■正直に言って、はじめ僕は「なんだか、スッキリしないタイトルだなぁ…」と思った。字面も、語呂も、スマートさに欠けていて、なんだか引っかかる。
■アメリカを描いた映画なのだから、たとえば「God bless America !」という英語表記でも良かったのではないのかな。慣用句としての意味はだいたい同じだし。ま、個人的な好き嫌いにもよるだろうけれど…。
■しかし、まもなく僕は気がついた。じつは、この「ばんざい」の語句そのものこそが、この映画の最大のキーワードなのだと。
■そう、この語句を、日本という国に住む我々は、じつによく知っている。それがどのような場合に使われるのか、また、実際に過去においてどんなふうに使われてきたのかを、僕たちは経験として知っている。
■特に、60~70年ほど前の一時期、この国において、この語句がどれくらい特殊な“力”を帯びて唱えられていたのかを、未だ拭い難い痛みとともに、知っている。
■現在でも「ばんざい」の語句は、いくつかの含意のもとで使われる。例えば、もろ手を上げて全てを委ねきった状態を意味することばとして。
■そこには、もうどうしようもないという諦めのニュアンスと同時に、より以上の努力をすることの停止、つまり”思考停止”のニュアンスも含まれるだろう。
■この映画は、そうした「もうだめだ…」という意味でのアメリカの「ばんざい状態」をも見事に描いているはずだ。
■しかし、この映画のタイトルの「ばんざい」が指すのは、何もそういったアメリカの現状だけではなく、また、アメリカが自己を鼓舞するために張り上げる掛け声だけなのでもないのだ、ということに僕たちは気づかなければいけないだろう。
■「ばんざい」な現状に引きずり込まれた人間が、その悲痛さを麻痺させようとするが如く、かえって声高に「ばんざい」を叫び出す時、そこに取り返しのつかない悲劇が起こる。そのことを、僕らはすでによく知っているはずなのだ。
■僕らは、アメリカの人々が叫ぶ痛々しい「God bless America !」の声をスクリーンの向こう側に聞くことになるだろう。
■それと同時に、僕らがこの映画の向こうに二重写しのように確かめるのは、例えば、きっと今年の夏も九段下あたりから聞こえてくるであろう耳馴染んだ「ばんざい」の声であり、はたまた、例えば深夜のネットカフェや三交代の自動車工場で、そして秋葉原の交差点、八王子駅ビルの雑踏の中で、虚ろにもろ手を上げて「もうだめだ…」とつぶやくしかなくなってしまった、僕ら自身の痛ましい「ばんざい」姿なのだろうと思う。
■この映画、ぜひ、一見を。