月にまつわる独白

■連投。半月に渡る筆不精の反動です。笑ってください(笑)。
■昨日(2つ前)の日記に「満月に照るオンネトー」という写真を掲載しました。これは11月の撮影行で撮ってきたもののうちの一枚なのですが、自分の作品の撮影としては、じつにじつに久しぶり、5年ぶりくらいに行った「夜景」の撮影でした。
■じつは僕は、こうした夜の風景のみならず、星・月・太陽、または朝焼け・夕焼け、といった、いわば天体や天体の運動そのもの、またそれに直接的に由来する視覚現象を写真の主題とするような撮影を、これまで長い間意図的に行わずにきました。
■つまり、僕の写真ストックには、真っ赤に染まる日の出や夕景、長時間露光の星空の軌跡などといった作品がほとんどありません。
(たとえば、早朝の斜光線や木漏れ日を活かして…という撮影はもちろんたくさん行っていますが、あくまでも主要被写体はその木漏れ日を浴びる草木であったり風景全体であったり、です。)
■なぜか。それは、天体運動そのものに視覚刺激の要点をおく事象風景というものが、それ自体であまりにも神秘的でフォトジェニックだから。それを写した写真を見た人にとっても、また、とりもなおさずこの僕自身にとっても。
■天体の運動は、本当に神秘的です。文字通り手の届かぬ、想像を絶するほどの距離を隔てた場所でおこなわれる壮大な宇宙の営みは、地上でせこせこと生きる僕らヒトにとっては、あまりにも大きく、あまりにも不可思議で、それゆえ、見るもののこころを揺さぶります。
(極北でみたオーロラなんていう現象はまさにその最たるもので、僕にとってそれは、感激や驚きの対象であったというよりは、むしろ、それまでに経験した事のない純粋恐怖の対象でした)
■また、特に太陽や月といった天体に関しては、それが紛れもなく己のいのちの源泉であり、また、己のうちに脈打つさまざまな生体律動(リズム)の根源であるということを、身体そのものが十分すぎるほどに解ってしまっているゆえ、太陽や月自体やそれらが折々に呈する視覚的効果は、自ずと「絶対的・神秘的」な存在です。それを意識しようと、意識しまいと。
■僕にとっては、そうした天体現象がヒトという存在に対してもつ(発揮してしまう)絶対性や異次元性、また異界性が、被写体としての色彩やフォルムを得て写真の中に固定されたとき、そこにあまりにも大きな自然(じねん=おのずと、しかり)の絶対的な力を付与してしまうであろうことが、端的に言って、怖いし、また撮影者として本意ではないのです。
■それらを写真に撮ることによって「自然は凄い!やっぱり自然は神秘に満ちている!」というある種の”結論”へと最短距離で到達してしまう自分を許したくない、そんなに簡単に自然というものを了解してしまいたくない、ということなのかもしれません。
■ま、簡単に言えば、あまのじゃく、ということですね。美しくフォトジェニックであり、また意味においても重厚なものだからこそ、あえて「撮るものか!」と力んで拒む、という。
■ま、もともと、解りのいいものやその価値の大きさが自明なもの、またすでにマジョリティの地位を得てしまっているものを敢えてちょっと避けてみる、というひねくれた性癖は、写真に限らず僕の中にはいつもあるわけですけれど。
■でも…ついに、というか…撮っちゃいました。
■11月の凛と晴れ渡った夜空に浮かぶ満月が、そして、その光に照らされる湖と森が、あまりにも美しかったのです…。
■「その美しさとやらのほんの数パーセントすらもこの写真からは感じられないではないか!毎度毎度エラそうな能書きばかりタレおって、この未熟者!」というお叱りは、はい、甘んじてお受けいたします…。まぎれもなく、技術不足、精進不足です。
■でも、それは棚に置かせていただいて、久々に撮ってみて思ったこと。
■力みすぎはよくない。美しいと思ったら何でも撮ろうよ。美しいんだから。いや、ほんと、美しかった!
■でも、やはり、なのです…。
■「いやいや、この手に触れられる物事をこそ凝視し、また、それにまみれ、もがきつつ、時間をかけて自然や自分というものを了解していきたいのだ、俺は!」と断言したがる頑なな自分もまだ確かにいるのです。困ったもので。
■力まず柔軟でありながら、頑固なあまのじゃくでいる――ってのは、成立しないものでしょうかね。
■あ、それって、もしかしたら”樹”のことか――