東北滞在① 仙台港から南相馬市鹿島区

( 蛇足ながら…ここに書いたこと、またこれに続いて書こうとしていることは、綿密な取材や責任ある裏付けに基づいたレポートなどではなく、あくまでも、僕がわずかに垣間見た様子を、もっぱら主観的に伝える「雑感」です。そのようなものとしてお読みください。もし記述の中に明らかな事実誤認や、看過できない偏見が含まれると思われた際には、ぜひご一報いただければ幸いです。)

7月26日

■苫小牧から仙台港行きのフェリーにて出立。風があって、結構揺れる。

■午前10時仙台港着。雨模様。時折強く振る。湿度高い。肌、べたつく。からりとした北海道って、やっぱり、いいなぁ…。

■昼食をとり、南相馬へ車を走らせる。

■震災の年の4月末、たった2日間だけではあったものの、僕は南相馬市内の津波被災家屋清掃のボランティア活動に参加した。その際に目にした被害の様は衝撃的だった。

■今回仕事で東北へ来ることになり、駆け足にはなるものの、「その後」をぜひ見ておかなくては、と思った。

■国道4号沿線。仙台近郊は(外見上は)震災の傷跡など何ら感じさせぬ賑わい。軽い渋滞。遠くに目を凝らし、甚大な津波被害を受けた閖上地区を臨んでみるが、名取川河口周辺は柔らかな緑の草色に覆われ、惨状の現場とは思えぬ平静さだった(しかし後に閖上地区がいま抱えている複雑な課題を知人から聞くことになる)。

■阿武隈川を渡り、国道6号線へ。浜通り。

■亘理、山元。国道沿いの水田では稲の早苗が風に揺れ、広々として静かな田園風景をなしていた。地域の方々の「日常」の風景が取り戻されたということだろうか。もちろん国道から浜へおりれば、そこにはまだまだ津波の痛々しい傷跡が残っていることだろうし、いま垣間見ているこの国道沿いの風景にしても、その裏には、僕のような通りすがりの旅行者が知る由もない課題・問題が暗い影を落としているに違いない。

■道沿いのところどころにいくつも、仮設住宅への案内看板を目にする。やはり、どんなに風景が緑の“日常”を取り戻そうとも、この地域の人びとの暮らしそのものにとっては、未だ「仮の状態」が続いている。

■相馬市。先を急いでいることもあり、パイパス道を選ぶ。ここもまた、車通りが多い。遠目に見る相馬の中心市街地も、活気を帯びているように見える。2年前に相馬を通った時は、復旧工事関係と思われるトレーラー、重機、ダンプ、作業員を乗せたワゴン、また医療/食料支援関係車両、そして自衛隊の様々な車両が、ちいさな地方都市には不似合いなほどの物々しい車列を作っていた。今や当時の面影は感じられない。

■南相馬市へ入る。当時、車中泊で夜を過ごした道の駅が見えた。薄暗い駐車場で、ゆっさゆっさと揺れる余震に怯えながら、車の窓を締め切って防塵マスクを着けたまま寝袋に包まったことを思い出す。当時は道の駅のすぐ横にあるセブンイレブンが、日中だけの臨時営業を開始したばかりで、土木作業関係者や行政関係者とおぼしき人たちが食料や飲料をもとめてレジ前に行列を作り、コンビニらしからぬ異様な活況を呈していた。しかし、いまやそれに代わって、当時閑寂としていた道の駅の物産売店が何本もののぼりを掲げ、道の駅らしく、観光客を呼び込んでいる。2年、経ったのだ。

■当時「復興支援価格500円」という手書き看板を掲げていたラーメン屋を横目に過ぎ、南相馬市鹿島区へ。

■鹿島区ボランティアセンター。僕はここに登録し、区内の被災住宅の泥掻き出し作業に従事した。当時はセンター周辺の公共施設は「避難所」となっており、簡易に間仕切られたフロアにたくさんの被災者のみなさんが疲れた表情で佇んでいた。いまはそれら施設も本来の使途に使われているらしく、そのかわり、隣接した土地には、コンテナ建ての仮設住宅が所狭しと軒を連ねている。センター入口にひしめいていた泥かきのスコップやレーキ、泥だらけの長靴やヘルメット等も、当然のことながら見られない。

■窓ごしにセンターの中をのぞいてみた。10数名はいるだろうか、職員達が、打ち合わせか、何かの作業か、活発に働いているのが見えた。もともとは社会福祉協議会の事務所だというから、こちらもまた本来業務にあたって忙しく働いているのかもしれない。しかし、センターの駐車場を見ると、地元福島ナンバーの車のみならず、札幌ナンバーや本州のナンバーなど、他地域からの車も停められている。未だこの地域が、他地域からの支援を受け入れ、それを必要としているのかもしれない現状が伺えた。

■先を急ぐ。日が暮れる前に、泥かきをしたお宅、そして、その近隣の真野川河口部の、当時僕が初めて目の当たりにして文字通り呆然となったあの津波の惨状がいまどうなっているのか、見たかった。

(つづく)