森で、カメラで、写真を撮る、ということ

■いま撮影で冬の森に来ている。
■一日中雪の森を歩きながら、いつものようにいろいろなことを考えた。
■思わず心がうきうきとすることも、また、昨今悶々とした思いを募らせているあることに関しても、じつにあれこれと。
■森にいると、とにかく、考える。
■それは、考えることが好きだから、ということもあるのだけれど、それ以上に、「考えること以外にすることがない」という状況の要請も、じつはある。
■僕の撮影スタイルは「美しい」と思える被写体と出会えるまで、ひたすらに森を歩き回る。それも、もう何年も繰り返し歩き続けてきた同じ場所を。
■だから、ただでさえ歩いてばかりいる上に、目に入る風景は、悪く言えば「全てが見慣れた眺め」であり、目新しいものなど殆どない。
■だから、「あれも、これも!」と撮り貯めることばかりで頭が一杯だった最初の頃に比べたら、もう格段に「撮る」という行為自体、また撮る作業の為に特化した思考時間というものが少ない。
■つまりは、「撮る」こと以外について、すなわち「よしなしごと」を考える時間がいや増していく。
■歩いては、あれについて考え、立ち止まっては、これについて考え。
■被写体と向き合っては、いや違う…と考え、レンズを交換しては、なるほどそうか…と考え。そして、結局シャッターを切らずに、座ったまま、しかし待てよ…と考え。
(もちろん、考えながらも、何より大事な「感じる」というチャンネルは開いたままであることは言うまでもない)
■で、今日あらためて考えたこと。
■「森で、一眼レフカメラを用い、写真というフォーマットの中に風景を切り取る、という作業は、僕にとっては、人間として社会に生きる上でのなんと大きな意義のある”訓練”を与えてくれるのか」ということ。
■なぜそう考えるのかは、ここには書かないでおこう。いつものことだけれど、クドくなる。
■ひとつだけ。
■もう撮るものが無いと思いこんでいた風景の中に、心震えるような美しきものが潜んでいるのを知ったときの、何とも言えない深い喜び。その経験の積み重ね。
■しかし、こんな豊かな時間の過ごし方を許してもらっているとは、なんと幸せなのだろう。その自己中心的な幸せの為に、大いに負担を負うている家族には、申し訳ないばかりだけれど…。