■最近のとある取り組みのせいで、いままでにも増して「小寺さんの本業がますます分からなくなってきましたね」と言われる日々を送っている。
■昨日等は、何度「小寺さんって、本業は写真家ですよね?」とひとから問われたことか。
■で、いまさらながらに自分でも、「本業ってなんだろなぁ?」と考えている。
■いまパッとspotlightで「業」という漢字一字を入れて検索したら、mac内の辞書には次のようにでた。
ぎょう【業】ゲフ
1なすべきこと。仕事。わざ。「畢生(ひっせい)の―」
2暮らしの手だて。生業。職業。「家の―を継ぐ」「菓子の販売を―とする」
3学問。技芸。「―を修める」
ごう【業】ゴフ
《(梵)karmanの訳》
1仏語。人間の身•口•意によって行われる善悪の行為。
2前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。「―が深い」「―をさらす」「―を滅する」
3理性によって制御できない心の働き。
なり【業】
生活のための仕事。生業。なりわい。
わざ【業】
1おこない。行為。所業。しわざ。「神のみ―」「人間―」
2職業。仕事。「物書きを―とする」
3こと。ありさま。おもむき。「容易な―ではない」「腹ふくるる―」
4仏事。法要。
「安祥寺にてみ―しけり」〈伊勢•七七〉
5たたり。害。
「―をするものはだますといふほどに」〈虎明狂•附子〉
■さて、自分にとっての「業」とは…?
■もし「業」を「なり」と読んだうえでこの辞書に沿って考えるとすれば、まあ確かに、小寺がいま身を置いている現状の中で考える「小寺の業」は、自他ともに、じつにじつに分かりづらい。
■でも、それを「ぎょう」と読んだ上で、特に辞書の1の解説に沿って考えるならば、(他の人がどう思うかはいざ知らず)僕自身にとってのそれは、実にシンプルに統合性を保っているように思える。
■つまりは、「自分が為すべきと思うことを、いま為す」ということ。写真を撮ることも、子どもたちと関わりをもつことも、NPOの活動をすることも。
■もっと大上段に構えた大げさな言い方をすれば「自分が自分として生きる」ということ。
■さらに突き詰めれば、「自分の生が、自分の内外で、平らかに和して在るようにしたい」、つまりは広義の平和を自分の内外で実践的に得たい、ということ、か。
■書けば書くほど、なおさらに、ワケわからんな…。
■ともあれ。
■本当に本当に幸いなことに、そして奇跡的なことに、「なり」としては矛盾に満ちつつも「ぎょう(1)」としては自身の思いに沿うような取り組みを、僕はいまさせてもらうことができている。そうすることがなんとか許されている。
■ただ、自分勝手で我がままなやりかたを押し通しているせいで、家族や近しい人たちには多大な心労と迷惑をかけているのは疑いのない事実…。その点は、申し開きをすることばがない…。