泥の河

■また、先日の東京の話し。
■在京最終日の5日。飛行機の時刻が夕方だったので、日中、編集社Eさん、友人Yさんと待ち合わせて、東中野にある映画館「ぽれぽれ東中野」で開催中の「小栗康平監督特集」を見に行く。
■その日の昼の回で上映されたのは「泥の河」。1981年公開。小栗監督30代半ばのデビュー作だ。
■僕は、だいぶ前から小栗監督に関心を持っていた。
■しかし、実際のところ、小栗作品はこれまでにたった一本しか観たことがない。「眠る男」。しかも、もう10年以上前のことだ。でも、その時に受けた衝撃は今も覚えている。
■良い意味での「なんなんだ…これは…」という感慨。そこで受けた強い強い刺激は、じつのところ、それ以降の僕の写真活動を、精神的側面から弱からず後押ししてくれている。
■そんな(僕にとっての)衝撃作を作る監督の、その他の作品が観たい!と思いながら、気が付けば長い時間が流れてしまっていた。
■今回の「小栗特集」企画は、小栗作品全作を順番に上映し、さらには、週末企画として監督とゲストによるトークショーも行っていた。その日のゲストは「ぽれぽれ」のオーナーでもあり、写真家・映画監督でもある本橋成一さんだった。
■トークももちろん良かったのだけれど、やはり、映画が良かった。
■昭和30年代の大阪。ある河のほとりで出会った少年二人と、その家族が過した、ほんの短い夏のひとときの出来事。
■しかし、そこで立ち現れる「生というものが背負い込んでしまった”痛み”」の数々が、主人公の少年だけでなく、その物語を覗き観ている僕の胸にもツンと刺し込んできて、切なくなる。
■現代の、歴史や人の営みの最新の”上澄み”だけを享受して生きているかのように錯覚している僕自身の内にも、きっとその”痛み”の源は、まるで川底に厚く積もるヘドロのようにして、確かに横たわっているのだろうな――そんなことを感じた。
■ラストシーン。主人公の少年の内にきっといつまでも消える事の無いであろう”痛み”を残して去ってゆく「船」に、僕は、流れ来て、また流れ行くという、生命の「流転」の様を観たように思う。
■それは単なる”繰り返し”なのではなく、常に変容を遂げながら、ねじれるように、重なりあうように続いてゆく、多重螺旋のシークエンスだ。
■どこから来て、何を残し(または残さず)、どこへ去ってゆくのか――それはじつは、後作である「眠る男」にも通じる、人間存在への問いかけのようにも思えた。
■「泥の河」。テーマも演出も、なかなか重厚な映画だった。そして、なぜ小栗監督はこの重たい内容の原作をモノクロームで描き、それを自らのデビュー作としたのか、その意味を考える余韻をも十分に楽しめる作品だった。