瓦礫処理

新聞を見ても、テレビを観ても、いま震災瓦礫処理に関する話題が多い。現に、切実な問題だ。
ただ、「痛みを分かち合おう」がひとつの合い言葉になっているようで、瓦礫の放射能汚染を理由に受け入れを拒否する自治体やそれを支持する人びとのことを「人でなし」扱いする風潮が一部にあるのが気になる。
この日本列島で長く尊重されてきた道徳観に照らしても、そういった「公の為なら痛みを分かち合うべし」との論理は強い説得力を持つようだ。
現に、その”伝統の道徳観”を尊ぶ人の中には、瓦礫の拡散を反対する人びとに向かって問答無用で威圧的に「黙れ!」と一喝して憚らないオジサンもいる。
(何だか、東も西も「問答無用!」がまかり通って息苦しい。本当にココは民主主義国家かいな?そういう「問答無用!」的なオジサンたちほど、例えばお隣さんのことを「非民主的だ!」なんて小バカにする傾向が強いけど…)
ともあれ、今回の瓦礫の「分かち合い」については、いろいろ思うことがある。
一番シンプルな部分だけ書いておくと、放射能汚染云々のことは脇においても、本当の本当に、被災地もしくは被災地近辺で、その地域に住む人たちの負担にならないような形で瓦礫を安全に処理(保管も含む)することはできないのだろうか?
なんだか、そのことの誠実な検証を抜きにして「痛みは分かち合う」という前提だけが先走っているように思えてしまうのだ。単に僕の勉強不足なのかな?
さっき、所属するMLで、被災地に在住する人からの声として次のような文面が紹介されていた。
「オレ被災地宮城内陸に住んでるけど、ガレキ保管の空き地なんかいっぱいある。ガレキなんか、安全な焼却設備と費用があればどうにでもなる。他県への押し付けは、違う意図、利権の臭いがするなあ。」
ネット経由の又聞き情報なのでその発言者個人を僕はよく知らないし、発言の真偽を検証することはいまは僕にはできない。
ただ、自分自身の素直な感覚として僕は「よく考えれば、そうかもしれないなぁ…」と思うのだ。
本当に瓦礫は、いま、遠い他地域へ運び出して処理しなければならないのだろうか。繰り返しになるが、これは、放射能汚染拡散をどう考えるか以前のこととして。
それが不可能、もしくは、選びうる選択肢として明らかに合理性に欠く、というのなら、そこから先は「どう分かち合うか」の議論になっていくとは思うのだけれど。
感情の側面、「道徳」的側面では、「被災地は地震と津波で苦しめられたのに、さらに瓦礫の痛みにもずっと耐え続けろというのか」という言葉には心が動く。他人事ではない。
ただ、世の中全体、また国家や為政者が「道徳」や感情論を持ち出して何かコトを始めようとしたときには、特にこのニッポンという国においては、僕は個人的に、それへの同調より先に「警戒感」の方が先に立ってしまう。
僕は単にひねくれた「人でなし」なのかもしれない。被災地、被災者の痛みに対する想像力が欠如した冷血ニンゲンなのかもしれない。こんなブログを書くと「黙れっ!」と一喝されそうだ。
しかしやはり、何事についても「いったんは自分の頭で考えてみる」ということは手放したくはない。本当なのかな、と僕は考えてみたいのだ。
それを考える為のあくまでも”一材料”として、先のMLからの情報に同送されてきた関連情報を以下に記しておきたい。
大事なのは、知り得た事、感じ得た事を、自分の頭でよく吟味し考える事だ。そうでなければ、行動も、ことばも、本物にはならない。
続報・東京都と東電子会社が瓦礫利権 都1億、東電140億
http://sekaitabi.com/garekiriken.html

「みんなの力で瓦礫処理」

http://blogos.com/article/33513/


他人事とせず、よく考えたいと思う。
他人事とし、よく考えないことの「罪深さ」をこそ、この一年間あまり、ずっと問われ続けてきたと思うので。