知ること-1

■先日の日記に書いた釧路での話をもう少し。
■Fさんとの久しぶりの再会を果たした会食の後、じつは小さな二次会があった。
■Fさん、写真家Nさん、そして同じく会食参加者で、根室方面で教員をしているN先生ともに、4人ですぐ近くのジャズ喫茶Tへ行き、コーヒーをすすりながら雑談を楽しんだ。
■世界を飛び回る写真家Nさんはもちろんのこと、Fさん、N先生ともに、海外での体験談が豊富で、しかもそれがいわゆる「海外旅行」では行かないような土地の話ばかりで、会話がとても面白い。特に、N先生が教えてくれた某隣国の知られざる内情には興味が尽きなかった。
■ここでその話の内容をつまびらかにすればN先生の立場が危うくなるので詳細は伏せるが(笑)、「ああ、狭い海峡を隔てただけなのに、世の中の成立ちはそんなにも違うのだ」と、世界の多様性の片鱗をあらためて感じた。
■そして同時に、僕はなんと世界を知らないのだろうか、とも。
■もちろん、60億の深みを持つこの世界の全てを知ろうとは思わないし、それが知れるなどとは到底思わない。また「いかに多くを知っているか、体験したか」ということがすなわち人間や人生の価値を決めるとも思わない。
■だがしかし、例えば異文化を知るということが、世界というものの輪郭を少なからず鮮明にしたり、また、自らが属する文化そのものを理解する上で大きな役割を果たすことは間違い無い。
■知ることや経験することは、世界や己を写す「合わせ鏡」となり、物事の核心を彫り出す「彫刻刀」となる。世界をよりよく理解したり、自己をもっと深く探りたいと思うのならば、それらをの”道具”をできるだけ多く持ち合わせているにこしたことはない。
■そういった意味では、いま僕は、世界や自己への探求を深めたいという思いはありながらも、外を知るということや新たな体験をするということへの関心や内的欲求がかなり低調であり、あまり誉められた状態にはない。
■N先生、写真家Nさん、Fさんらの話を興味深く聴かせてもらいながら、僕は現在の自分の在り様を省み、もっと貪欲に、身軽に、外へと出て行くべきなのではないかと思った。
(つづく)