秩序

■我が家の風邪ひき流行もようやく収束の見通し。長女もインフルエンザではないようで、一安心。今日は母とともに保育所のもちつき大会に出かけていった。
■僕は自宅で洗濯物干しと皿洗いを済ませて、次女のおもり。こうして家にいて次女の様子を間近に見ていると、成長の小さな変化が分かり面白い。
■昨日あたりからは、小さなお菓子の空き箱にドキンちゃんの人形を入れ込むことが面白くなったようで、何度も「出しては入れ」を繰り返し、きゃっきゃとはしゃいでいる。
■どうやら、ある空間の中にモノが入る・ハマる・収まるということの’気持ちよさ’を感じているようだ。いささか拡大解釈かもしれないけれど、これは能動的な行為で「秩序」や「秩序ある状態」を成立させていくことの気持ちよさであるといえるから、きっと、あらゆる科学的思考、また芸術行為に通底する感情なのだろうと思う。
■また、長女がお絵かきしている傍らで色鉛筆を「ふんふん!」と振り回しているのをみると、次女は次女なりに、「白い紙の上に、いままでなかった色や形を出現させる」という長女の行為に不思議さと興味を覚えていて、それを真似したがっているらしいことも分かる。
■自分で発見した’気持ちよさ’や、他者の行為を模倣することのなかで、次女は、身体運動を連動させながら自分の欲や感情をある秩序の中に置き換えていく訓練をしているのだろう。
■こうしたことは、きっと誰もが必ず通る人間成長の過程であり、ほんの些細なことなのだろうけれど、こうして改めてそれを凝視していると、とても面白い。
■と同時に、それら’ささいなこと’が秘めているであろう「意味」の大きさに、改めて襟を正したくもなる。「親として子どもとともに生活する」ということの意味の重大さを認識する。まぎれもなく、一人のヒトが、いまこの自分の目の前で、自分が提供した環境のなかで、人間獲得へ向けて着々と育っているのだ。
■そのことに過分な責任を感じて汲々とする必要はないまでも、子どもが育ってゆくことの喜びと楽しさを味わう裏側で、やはりいつもそれなりの覚悟と適度な緊張感をもっているべきなのだろうなと、思う。
■ところで、我が次女、もちろん秩序構築行動のみを行っているのではない。それとは正反対に、本棚から絵本を延々何冊も引っ張り出して放り投げる・破る、とか、長女の色鉛筆やクレヨンをわしづかみにして放り投げる、ティッシュをぶっ散らかすとか、まあ実に赤ちゃんらしいエントロピー増大行動にも余念がない。
■それに付き合うのも、まぁやはり、親としてそれなりの覚悟がいるわけで…。でもね、次女よ、お陰でオトーチャン自身のお仕事は相変わらず無秩序のままなのよ…。
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追記
■今日の日記を改めて読み返してみると、改めて、本当に僕は、あったりまえのことをさも重大なことのように書く性癖があるなぁ、と思う。「あかちゃんがそんなことするの、当たり前だべさ」と言われたらオシマイ、というような日記だ。
■しかし、これまでに何度も書いてきたことだが、僕は常々「当たり前のこと」を蔑ろにしたくないと思っている。むしろ、当たり前のことを凝視し、その中に潜む物事の理(ことわり)にこそ光を当てて、そこに価値判断の基準を置き、そこから軸足をぶらしたくないと思っている。写真表現もそうだし、生き方もそう。
■そんな思いを抱きながら新聞を読むと、当たり前じゃない世界観のなかで当たり前じゃない数と力の錬金術にすっかり酔っ払って宙を漂う世界各地のオジサンたちの醜態が、ことさら痛々しく感じられる。じつにエラそうな言い方だけれど。
■まずは、戦争なんて馬鹿げた異常状態を終わらせたらいいのに。で、浮いた莫大な金で、環境・貧困の問題を、今よりもっと改善できるじゃん。これって当たり前の考え方ではないのかなぁ?