美味い野菜を食べて考える

■昨日の夕餉には、一昨日の日記にも登場した愛媛の野菜箱の中から、ごぼうをいただいた。「大浦太ごぼう」というそうな。直径3~4センチ。確かに太い。たっぷり赤土にまみれているのが、また嬉しい。
■ごぼうの歯ごたえが楽しめるくらいの太さの細切りにし、おととい買ったひき肉の残り、あと、「野菜箱」に入っていた大根の葉(この葉がまた元気!)とともにゴマ油でちゃっちゃと炒める。で、すりおろした人参と少量のだし汁をいれ、砂糖、塩、醤油で味をつける。最後に水溶き片栗粉でごく軽くトロみをつけて、「変則きんぴらごぼう」。
■ごぼうは、もちろんあく抜きなんてしません。歯ごたえがしっかりありながらも軟らかい(?)ごぼうを、奥歯で噛み締めると、野菜の美味さが染み出てくる。うまい。主菜のはずの焼きサンマがまったく存在感なし(ま、冷凍サンマだからしかたないか…)。
■連日、愛媛の元気野菜の日記になってしまった。
■しかし、こうして、心を込めて作られた、作り手の顔の見える食べ物を食べると、やはり「食」、そして「農」ということに深く思いを馳せたくなる。
■いまや、「食」と「農」は、市民のちょっとした関心事となっている。近年、様々な取り組みもなされている。
■ただ、「食育」「スロウフード、スロウライフ」などと、社会をあげて色々と取り組むのはもちろん良い事だ思うのだが、でも、それがどこかで「掛け声」だけになっていないかどうかが気になる。単なるファッションに終わってしまっていないだろうか。
■これは、サミットを控えての「環境」「エコ」の大合唱についても、またしかり。
■僕は、「環境」「食」や、特に「農」に関しては、つまるところ、深く政治の問題だと思っている。個々人のライフスタイルや嗜好がどうだという問題ではもはや無い。
■もちろん、個人の努力の積み重ねも大事だし、そこから政治的なものへと社会意識が醸成されていくことだってある。だけれども、、いまの「商業的情報化社会」にあっては、個人の嗜好やライフスタイルなど、コマーシャリズムのなかでいいように操作されてしまうことを忘れてはいけない。
■いま巷をにぎわしている農薬混入ギョウサ問題にしても、本質的には、この件の「事件性」を越えたところで、そうした「食」と「農」に関する”政治の本気”の有無を問うているように思える。
■餃子問題、はやいところ「犯人探し」にけりをつけ、より根本的な問題に突っ込みをいれたいものだ。僕は、ごぼうを噛み締めながら、そして、それを手塩に掛けて育てた愛媛の友人夫婦の暮らしぶりを思いながら、とりとめもなくそんな事を考えた。