考えること

■先日ある場所でのトーク終了後、聴衆のお一人から次のようなご指摘を受けた。
■「お話を聞いていると、小寺さんはいろいろ難しいことを考えて写真を撮っているんですね。でも、まだ若いんだから、そんなに難しく考えず、感性のままに、もっと単純に楽しんで写真を撮ればいい写真になると思いますよ」。
■ふーむ…。
■質疑応答の場で意を決してご意見くださったこの方には大変申し訳ないのだけれど、それを聞いて僕は、さらに考えてしまうのだった。
■「若い人間」は、考えちゃだめ?楽しんでなきゃだめ?と、ちょっと意地悪く重箱の隅をツツいてみたい気もするが、しかし、確かにご指摘のとおり、僕がある種の「考えすぎ症候群」に陥りがちなのは否めない事実だ。
■少し前にも、あるプロ写真家から「そんなに考えなくては写真は撮れないものですかね?」と言われてハッとしたばかり。
■やっぱり考えすぎなのかなぁ…。でも…。
■写真を撮るという事をある決意のもとに「人生の一部」「自己存在の拠り所の一部」として選び取った以上は、やはり生きてゆく必要上、その内容や作法について考えずにはいられない。
■つまり、僕にとっては、「考えずに写真を撮る」ことは「考えずに生きる」ということと同じであり、僕の性分においては、それはなかなかできることではないのだ。
■これはたまに講演の中でも話すのだけれど、そもそも僕が「写真家」などという肩書きを背負って生きようと考えたのは、「1.写真への関心」、「2.自然への関心」そして「3.思考することへの関心」があったから。
■好きな写真というものを大事にしつつ、好きな自然と向き合い、そのなかでモノを考えるという作業を自分の生活の根幹に置いてみようと思ったときに、なりわいの職種として浮かび上がる具体的な選択肢が「写真家」だったということ。
■要するに、僕にとっては、「写真」および「生活」と「考えること」は、本来的に分かち難いのだ。
■さらにいえば、僕は僕自身の「生」というものを、自分の価値判断に照らしてより質の高いものに磨き上げていきたいと思っている。そのためには、「なりゆき上・必要上考える」という以上に、より積極的な姿勢で、考えられる限りのことを、考える余裕がある限りにおいては、充分に考えた方が良いと思っている。
■では、僕は、トークの後にいただいたせっかくのご指摘を意に介さず、今までどおりやっていればそれでいいのか――。いや、そんなことはない。
■きっと、僕がこの方のご指摘によって真に自らを省みなければならない点は、「僕が考えるか・考えないか」についてではなく、もっとシンプルに、僕の写真がこの方の関心をひきつけるのに充分な力強さを持ちえていなかったという事実の方なのだろう。
■もし僕の写真自体がこの方にとって十分な吸引力・喚起力を持ってさえいれば、作品の好き嫌い(良し悪しの判断)は別にして、「若いんだから…」とか「考えすぎ…」というような抽象的なファクターが写真もしくは写真活動の評価に割り込んでくるようなことはなかったはずだ。
■つまり、写真自体がまだまだ弱いのだ。「この人の写真は全くわたしの好みには合わないけれど、でも、何だか気になる…」と言わしめるような、画像としての力量の不足。
■結局、精進が足りない、ということに尽きるのだろう。それが、いまさらながらによくわかった。
■もしかしたら、僕の考えすぎる性癖が、僕自身の精進を大いに阻害しているのかもしれない。もしそうだとすれば、やはり少し考えることを自粛してみるべきなのかもしれない。
■うーん、しかし、やはり、こうしてネチネチと考えてしまうんだよなぁ…。