腕の長さと当たり前

■子どもが泣く。抱っこする。当然、仕事にならない。そしてため息をつく――。これは、まあ、仕方のないことだ。子持ち在宅自営業者の宿命だ。
■でも、この「強いられる抱っこ」がたびたび僕にとてもよい思索や発見の時間を与えてくれるという現実もある。それを考えれば、それは決して「悪い宿命」などではない。
■自分の思い通りにならない状況が結果として「自分に関わる世界は自分の思い通りになるはずだ・なるべきだ」などと夢想してしまいがちな弱っちい精神に風穴を開け、むしろ世界をより大きく開いてくれる。
■そういう意味においても、赤子を抱っこする時間は、カメラを片手にただあてどなく森を歩きまわっているときの時間と、不思議ととてもよく似ているな、とも思う。
■ともあれ。
■今日も、次女8ヶ月を腕に抱えてあやしながら、いろいろ思った。
■いつくかあれこれ考えたのだが、そのうちのひとつは「腕のサイズ」について。じつはこれは、今日はじめて思い至ったことではなく、長女が生まれてすぐに思ったことなのだけれど…。
■そう、成人の腕(上腕と前腕)のサイズ(長さ)とは、もしかして「赤ん坊基準」で決まっているものなのではないかということを、僕は今日もしみじみ考えた。
■抱っこをすればするほど、赤ん坊、特に新生児の標準的といわれる全体長や頭と胴のサイズバランスおよび重量バランスに対して、それを抱き支える成人の腕の長さとそのバランス、配置が、あまりに赤ん坊にとって好都合にできすぎているように感じられるのだ。
■例えば大人が左腕で赤ん坊を抱っこしたとする。左ひじの辺りに赤ん坊の頭を乗せ、やや対面するような体の向きで赤ん坊の体軸を前腕部に沿わせて乗せると、大人の手のひらはちょうど赤子の尻・股間を支える位置にぴたりと落ち着く。そのとき、ひじの屈折による凹と頭の凸、前腕の骨格や筋肉のくびれと体軸のくびれ、手のひらの凹と尻の凸の具合とが、不思議なほどにしっくり符合するのだ。
■あたかもジグソーパズルの最後の一コマがサクッと押しはまるときのように、そこにはある種の快感すらともなう安定感がある。そしていつしか、いま抱えている赤ん坊が「じつはそもそもこの腕の一部分なのではないか…」とさえ思えてくるような、それくらいの一体感が、このサイズの符合のうちにはある。
■さらには、(男性にはなかなか「実感」はできないのだけれど…)そのように抱きかかえたときに、ちょうど二の腕の長さがあるがゆえに、母親の乳首と赤ん坊の唇が見事な接点を得るという事実。
■それらを見、体感するとき、僕はつくづく、人の身体はよくできたものだなぁ、それにしても不思議なものだなぁ、と感心してしまうのだ。
■「あたりまえじゃん、そんなの」と笑い飛ばしてしまったほうがいいような、そんな些細なことかもしれない。でも、その「当然・必然の不思議」に、なぜか僕は心をゆすぶられてしまう。
■そして、やはりその感覚というものが、僕が森でいつもつぶやいている「森って、本当によくできているなぁ…」という感慨と同質であることを再確認し、ふむふむ、と思うのだ。
■「あんた、暇ね…」と笑って欲しい。
■そう、ホントは暇じゃないんだよな…。やらなきゃいけないことがいくつもあって…。
■いやいや、その暇じゃないところに無理やり押し込んでくる「暇」が、じつは手強く有意義だったりするのだ。さらには、「当たり前のことになんぞ構っていられるかい!」という肩凝りな自意識を程よく揺さぶってくれる「当たり前すぎるくらい当たり前」の存在が、結構、いろんな物事の「通じ」を改善してくれたりする。
■当たり前を大事にしたい。そもそも、世界は当たり前でしか出来ていないのだし。むしろ、当たり前を蔑ろにし、目新しい「新世界」ばかりを模索し始めると、いずれどこかで血が流れる。
■まずは、誰の子でもいい、赤子をひとりその腕に抱っこして、やるせなくなるほどの「思い通りにならなさ感」の中で、じっとひととき考えてみたらいい。どこぞの大統領も首相も司令官も、株式ブローカーもTVプロデューサーも、「腕力」のあるオジサンたちみんな…。
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それにしても、突然の首相辞任表明にびっくり仰天。
疑問・賛同・「辞め方」への異議を唱えるよりもまず、どうしようもない哀れさを覚えてしまう。安倍さんには失礼だけれど…。彼なりに、強烈な「思い通りにならなさ感」にさいなまれた末の決断なのだろうけれど…。
古賀元幹事長がいう「驚きを通り越して悲しさを覚えてしまう…」が、関係の濃い・薄いを別にして、これを聞いたほとんどの人が覚えた想いだろう。
ため息が出てしまう。が、辞めると決めたのなら辞めればいい。しょうがない。安倍氏本人が心身の健康を今以上に崩さないよう願う。
そして、これを機に、日本やイラクや北朝鮮のこどもたちだれもが等しく享受すべき「みなで、仲良く、すこやかに生きる」という「当たり前」が、今以上に崩されなくなり、やがてはそれがこどもたち自身の手の内に取り戻されるようになることを、心より願う。