良く鳴る楽器

早寝しようと思っていたのに、ついNHK「SONGS/玉置浩二」を観てしまった。

玉置浩二の歌う姿を観ながら脳裏に浮かんできたキーワードは、
不思議なことに、「歌」とか「声」ではなかった。
なぜだかぼくには、玉置浩二が、楽器なのだな、道具・装置なのだな、と思われてしかたなかった。

なんと良く鳴る楽器なのだろう。
なんと優れた道具であり装置なのだろう。
本当に本当に、本当に、良く鳴り、優れて響く、みごとな楽器だ。

・・・・・

道具は、何かを為そうとする人間の必要によって発明され、
または選ばれ、所有され、使われる。
使われる中で磨かれる。

でも、じつはやがて、
その道具と、為されるべき物事と、それを為す人間と、
その三者の関係がのっぴきならないほど深刻なものに進展してゆくにつれ、
いつの間にやら道具そのものが
「何が・どのように為されるべきなのか」を規定し始めるようになる(ことがある)。

それどころか、さらに重大なことに、磨かれた道具は、
その道具を使用して何かを為さんとするその人間の
「人間存在の有り様=いかなる人であるか」そのものを選びとるようにさえなってゆく(ことがある)。

本来は“主人”であるべき人間やその行動の“主旨・原理”であるはずの為されるべきことが、
本来はたかが“従属物・奉仕者”に過ぎないはずの道具によって侵食され、
主体性やアイデンテティや自律性を剥奪されてしまう--

側から一見すれば、それは「あってはならぬこと」であり、
とても「不幸な出来事」であるかのように映るかもしれない。

でも案外、場合によっては、そうした主体・客体・目的の倒錯や撹乱は、
渦中にいる当の人間にとっては、却ってとても幸せなことに感じられたりもする。
果ては、そうした道具の干渉による我が身(や世界)の変容を、
心ひそかに待ち望むようになりさえもする(こともある)。

(この文脈で自分のことを語るのはえらく気恥ずかしいのだけれど……
思い切って告白すれば、ぼくは、AI Micro-Nikkor 55mm f/2.8Sという道具(レンズ)や
Kodachrome64という道具(フィルム) を偶然選びとったことを、
いまもとても幸せなことだと考えている。)

さて、ならばもし、道具と・為すべきことと・人間とが、
もう最初(ことの起こり)からたった一つ地点で、
いわば三位一体の神秘のごとく「それぞれが互いに、互いそのもの」であるような
境界をもって区別をつけることなどできない状態で存在し、
自ずからふつふつと蠢めくようにして作用しあい、
決して果てることのない変容を繰り広げるようなことがあるとするならば、
その幸せの大きさはいかほどであろうか、と想像してみた。

・・・・・

歌うたい・玉置浩二という、なんと優れた楽器だろう。
良く磨かれて、本当に本当に良く鳴る。
すごいな。