親ばか日記―娘の絵に思う

4歳の長女の描く絵が、なかなか良い。
保育所で日々お友達とお絵かきの研鑚をつんでいる影響が大きいのだろうけれど、我が子ながら、最近とっても素敵な絵を描くようになった。
先日僕の母が来ていたときには、カレンダーの裏紙を壁に貼り、大きな誌面いっぱいに、大好きなピンクのペンで、にっこり笑った女の子数人が咲き誇るタンポポ畑で楽しそうに遊んでいる絵を描いてみせた。
それが、なんとも無邪気で、純粋な希望と喜びに充ちていて、文句のつけようがないくらいに幸せいっぱいなのだ。
見る人の心を動かしてやろうなんて胡散臭い作為は全くなし。見目麗しく見せようという腹積もりは微塵も感じさせない(上手に描こうという色気は若干あるかもしれないが…)。
基本的には、ただ単に、そこに描きたいから描き、そこを塗りたいから塗った。その絵が、そのままで、紛うことなき幸せに充ち、喜びを存分に放出しているのだ。
誇張ではなく、この絵が持つ極めて前向きで一直線な開放力に、僕は思わず「すげっ…」と声を漏らしてしまう。
自分の写真の事を考えてみる。僕の写真はこれほどまでに純粋だろうか。これほどに「根源的な力」を持ち合わせているだろうか。
見えすいた手練れの作為ほど、時として醜いものはない。それは、作品を台無しにしてしまうどころか、その作品が世に生まれた意味や、当の作家が存在することの意義さえも、一瞬のうちに無に帰するだけの危うさを孕む。
僕はそのキケンとどれだけ距離を置いて歩むことができているだろうか――。
いま我が家の白壁に貼られた娘の絵は、屈託無い笑顔を居間に振りまきながら、実はそのことを密かに僕に訴えかけているように思えてならない。
いや、考えすぎか。訴えかけようとしないからすごいのか。